天の父も御子イエスも生きておられる実感が毎日ある | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Marcia O'Connor

 

プロテスタント教会にいる間はよくわからなかったこと。
それは、旧約聖書で「生ける神」あるいは「神は生きておられる」と度々記されている、「神は生きておられる」のだという実感。

また、ペテロが御子イエスに対して信仰告白をした時の「生ける神の御子」。その「生ける神」の「御子」とペテロが言った、「生ける神」の「御子」らしい、生き生きと働く救い、自由、平安、解放。そして天の父への執り成し。

こうした「生きて働く神の御業」。ヨハネ14章〜17章で御子イエスが細かく説明した、天の父と御子とが、相互に働いて、その人、つまり本当にイエス・キリストを信じている人に働く、神にしかできない、神ならではの恵み、祝福、救い、喜び、この世のものとは全く異なる平安。

そうしたことが、毎日、毎日、実感されるということ。
つまり、天の父は、生きておられ、御子イエスも、生きて働かれるという実感。

そうした実感を、プロテスタント教会にいた時に持つことは、全然できませんでした。

○イエス・キリストの最も重要な戒め「互いに愛し合いなさい」を実践するから神の愛がわかる

20世紀初頭のアズサストリートリバイバルから生まれたペンテコステ派、日本では聖霊派と総称されていますが、聖霊派もまた、ルターが始めた聖書中心主義の宗教改革の流れの中にいますから、ペンテコステ派もプロテスタントの中に含めて言っています(聖書から外れたことを教えるペンテコステ派/聖霊派はありません)。

ペンテコステ派に分類される教会にも、2000年から2010年にかけて。また2015年から2017年にかけては使徒的教会と呼ばれる、広い意味でのペンテコステ派の教会にもいましたが、ここでも、「毎日、天の父が生きて働かれる神だ」「ほぼ毎日、天の父が『愛の神』であられることを、御業によって経験する」「御子イエスが、いかに私たちのことを憐れんで下さって、天の父に執り成して下さるか」といった、天の父と御子イエスとが相互に連携して働かれる御業を経験することは、ありませんでした。

常に、「聖書には、これこれこう書かれている。だから…」と、聖句に戻るばかりで、「リアルタイムで、自分の目の前で、御業が現れる」ということに関する、素朴な信仰や素朴な証には、巡り会うことがなかったです。

特に、初代教会にはあって、その後の三位一体の教会群にはない、極めて、決定的な特徴。主イエス・キリストが弟子に伝えた最も重要な「新しい戒め」。

互いに愛し合いなさい。

これが、三位一体の教会群には欠落していますから、兄弟姉妹同士が互いに愛し合って、どのようなすばらしい天の父の御業が起こるのか。また、主イエス・キリストの優れた執り成しがあるのか。ヨハネ14章〜17章で、御子イエスによる最終説教として語られている事柄が、どのように、リアルに、毎日、互いに愛し合う兄弟姉妹の間で成就するのか?

神の現実とは、どのようなものなのか?
神が生きて働くとはどのようなことなのか?
生ける神とは、つまり、生ける天の父とは、どのような神で、毎日毎朝毎晩、どのように、その信じる人に働かれるのか?
愛の神の愛とは、どのようなすばらしい愛なのか?
十字架に架けられた御子が私たちに持ってくる救いとは、どのように優れた救いなのか?
御子イエスが私たちに与えて下さった自由は、どのように、根源的な自由なのか?毎日実感でき、喜びがあふれる自由なのか?

この喜びは、他の何物にも代えがたい、この世のものとは一切異なる、天にあるかのような喜びです。永遠の命と直結している喜びです。

このような喜びが、プロテスタント教会にあるか?ペンテコステ教会にあるか?

三位一体の偶像の下にいる限り、それは偶像であって、生ける天の父ではないですし、御子イエスもここで書いたように偶像です。それは、聖書の聖句を元に、頭の中でひねくりまわした人間の解釈に他ならない。生きて働くことはないです。

救いもなければ、解放もない。喜びが湧いてくるものではなく、毎日苦しいだけ。しかし、いつも聖句に戻る。聖句に戻っても、神は生きていないから、苦しみは去らない。解放もされない。

天の父は、生きておられるのです。三位一体の偶像が、物も言わず、喜びも解放も自由の与えないのとは、一切、異なります。

主イエス・キリストは、生ける天の父の息子なのです。生きて働かれるのです。
救いは、毎日、実感できるのです。

それは、兄弟姉妹が、互いに愛し合う中で、働かれるのです。
一人でいてるクリスチャンには、一切、神の生ける御業が起こりません。
初代教会そのままに、兄弟姉妹が、イエス様の新しい戒めを守って、互いに愛し合うから、愛の神であられる天の父が、愛を現されるのです。
憐れみに満ちた御子イエスの執り成しが起こって、罪が赦された実感が湧いてきて、感謝が満ちるのです。