「自分のストーリー」を考え続ける悪霊 - その「孤独」が癒されるために(2) | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

撮影:今泉大輔(前投稿で触れた六本木一丁目に住んでいた時のもの)

 

その「孤独」が癒されるために(1)の続きです。

 

 

私は過去に3回離婚しており、今の結婚は4度目です。3度目の離婚をした2010年から現在の妻に巡り合う2020年まで、自分の体の奥底に染み入るような孤独を経験していました。

 

○結婚して夫婦でいても孤独
 
 また振り返ると、1度目の結婚の時も、2度目の結婚の時も、「夫婦でいても、二人で暮らしていても、孤独である」ということを感じていました。これは、ほぼすべての結婚している人が感じている現実ではないでしょうか。結婚した相手と理解し合うことができず、コミュニケーションに虚しさが漂い、夫婦の間でさえ、愛想笑いが必要になる。独身時代には、結婚しさえすれば孤独は終わる…と感じていたのに、愛し合って結婚したはずん相手と一緒にいても、同じ孤独感を味わうことが多々ある。それが現実だと思います。
 
 これは子供が生まれても同じです。子供が生まれて賑やかになると「自分達は家族である」という実感を味わうことはできますが、家族であることをよそ様にお見せできる優越感はあるとしても、その実、夫も妻も、二人でいた時代に感じた孤独が消えることはない。子供についてのコミュニケーションは発生するとしても、本当に愛し合う妻として、夫として、相互にわかり合う達成感を得ることはなく、常に相手に対して、「なぜ、彼女はこうなんだろう?」「なぜ、この人はこうなんだろう?」と、理解できない不満足ばかりが募る。それがほぼすべての夫婦や家族が抱えている現実かなと思います。

 これは、夫も妻もクリスチャンであって、毎週日曜日にキリスト教会に通う夫婦であっても同じです。三度目の妻はいわゆるクリスチャンであり、私もいわゆるクリスチャンでしたが(その実今から振り返れば信仰はなく、聖霊も下っていませんでした)、日曜日の礼拝の際に教会の中にいても、染み入るような孤独を感じることが多々あったことを覚えています。
 
 孤独は、一種の病であり、染み入るような欠落感をその人に味あわせます。痛いような孤独を感じることがあります。

 また孤独は、特に日本社会では、恥です。孤独であることは、できるだけ隠したい。そういう思いを抱かせます。孤独であることを隠すために、何らかの行動をすることがよくあり、それがその人を余計に疲弊させます。
 
○根源的な孤独はルシファーから来る
 
 聖書の価値観に立って分析すれば、孤独は、ルシファーから来ています。彼が人々に自分の属性である「プライド」を植え付け、プライドがその人において常時働くように仕向け、そのような人として子供時代を送らせ、内に外に、その人の行動原理に常にプライドが見え隠れする大人として成人させます。浴びながら育った親の価値観。地域社会の監視。学校の現場を覆っている集団的な心性。それらにプライドを醸成する何かが常に潜んでいます。


 また、日頃目にするメディア。アニメ、映画、ドラマ。ゲーム作品。SNS。SNSを通じて知り合った人との人間関係。そこにも常にプライドを掻き立てるものが潜んでいて、その人を「プライドの人」に育て上げて行きます。女性であればBLに没入する。男性であれば匿名でコメントを書く行為に没入する。例えばそのような形で、プライドは毎日育って行き、その人を覆って行きます。
 
 このプライドは、ここの教会ブログで度々触れている「悪霊」としての特性を持っています。このプライドは「霊」として存在しており、生まれて間もない頃はまっさらだったものが、親の口から出る言葉(恥の意識、体裁)、メディアを通じて降ってくる言葉、幼稚園保育園や学校で知らず知らずに染まった価値観に潜んでいて、知らぬ間にその子に入り、取り憑き、様々な機会を捉えて育って行きます。そうして、その人を離れなくなります。
 
 ○世界を旅する若者達も同じ孤独に苦しんでいた
 
 プライドの霊で苦しんでいるのは、何も日本人ばかりではありません。私は2018年に半年以上、海外の諸都市のホステル、シェアハウスを旅行して歩いた経験を持ちました。シンガポール、テルアビブ、ロンドン、アムステルダム、ブダペスト、ボストン、サンノゼなどで、安い料金のドミトリー(二段ベッドが複数ある部屋)で数日〜数ヶ月滞在することを何度も行なっていました。そこでは世界各地からやってくる二十代、三十代の若者達と一緒になりました。
 
 現在では一泊2,000円程度で泊まれる宿が世界の各地にあり、それも朝食付きの所が少なくないので、贅沢をしなければ、1日3,000円程度で暮らすことができ、そうした安いコストで長期に渡って世界各国を旅して歩く若者が世界のどの都市にもいます。
 
 こうした諸都市で出会う若者達も、今から振り返ってみれば、孤独を抱えていました。むしろ、孤独であるからこそ、そうした旅行をする。日本的に言えば「自分探し」のストーリーを生きている。ハンガリーの首都ブダペストで出会ったロシア人の二十代女性は、オルタナティブバンドが好きな現代的な感覚を持った、欧米のどこの都市にもいそうなそこそこオシャレな、けれどもシャイな人でしたが、今このロシアによるウクライナ侵攻のコンテキストの中で、どのように暮らしていることでしょう。


 同じくブダペストの都心のホステルで出会ったペルー人の三十前後の男性。彼は気のいいやつで、どこで誰と出会っても仲良くなるのですが、その実、常に相手との距離感を微妙に感じ取っている風があり、孤独を引き連れて諸都市を巡り歩いていました。コロナになって、おそらくは母国ペルーに帰っていると思います。
 
 この二人に限らず、世界を旅している歩いている若者のほとんどは、同じような孤独を抱えていたことを、今振り返ると、はっきりと認識できます。南米から、東欧から、米国から、西欧から、中国から、韓国から、日本からやってきて、そうした若者が欧州や米国の諸都市に中長期の滞在をしていました。
 
 その旅行を終えて日本に帰ってきて、しばらく済んだ東京都墨田区のシェアハウスにも、そうした外国人が20人ほど住んでいました。同じ孤独を抱えていました。
 
 ○「自分のストーリー」について考え続ける悪霊
 
 その孤独の根底には、「プライドの霊」と呼ぶことができる、その人に染み付いて離れない「自分のストーリー」に関する強い衝動。「自分のストーリーを常に『高みに持って行きたい』」と考え、そのように行動する強い欲求があります。そうした衝動や欲求は「悪霊」として、その人に住み着いており、意思やヒーリングで除去することはできず、主イエス・キリストに完全に自分を明け渡す日まで、その人を支配し続けるのです。