Courtesy of Pedro Szekely
初代教会の信仰が回復して、異邦人でありながら、大祭司であられる主イエス・キリストの執り成しがいただけるようになると、ヨハネの福音書4章に記されている、霊とまことによる礼拝が、自分がいる部屋で、できるようになります。
これは、何物にも代えがたい、言葉にすることもできないぐらいの、すばらしい経験です。
女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
ヨハネ4:19-20
上の一連の聖句で、サマリヤの女は、礼拝する場所を問題にしています。
それに対して、主イエス・キリストは、場所が問題にならない日が来るとおっしゃっています。
礼拝する場所が問題にならない。すなわち、自分が多く時間を過ごしている自分の部屋で、でも、礼拝ができるようになるということです。
もちろん、よく行く公園や、登った山や、広く視界が開けた海岸で、礼拝をしても良いわけです。
しかし、本当の礼拝を知った人は、毎日のように、この礼拝を行うようになりますから、毎日いつもいる場所、つまり、自分の部屋でこの礼拝を行うようになるのが自然です。
別な言い方をすれば、主イエス・キリストがここで教えておられる霊とまことの礼拝は、カトリックやプロテスタントやペンテコステのキリスト教会の教会堂でなくとも、いつでも、どこでも、つまり日曜日でなくとも、安息日でなくとも、できる、ということです。
本当の神を、本当の神の御子であられるイエス・キリストを通じて礼拝することが、いつでも、どこでもできるということは、本当にすばらしいことです。
○アブラハムに現れた神と同じ神を同じように礼拝する
霊とまことの礼拝とは、使徒の働きで記されているような本当の聖霊をいただいて、その聖霊によって、霊として存在しておられる天の父を、大祭司であられる、また、神の右の座に着座しておられるイエス・キリストを通じて、礼拝するということです。
このことが、しっかりと、できるようになると、すばらしい経験を何度でも、します。
つまり、この、霊とまことによる礼拝とは、アブラハムに現れた神。あの神と同じ神を、アブラハムのように見上げて、礼拝するということです。数千年の時を経て、アブラハムのように、神と交わることができるのです。
アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。
「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。
あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。
わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。
わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」
創世記17:1-8
私たち日本人は、異邦人ですから、本来、アブラハムに現れたイスラエルの神を礼拝することはできないのですが、パウロにイエス・キリストが現れて下さって、異邦人への福音の道を切り開いて下さったおかげで、私たち日本人も、この礼拝ができるようになりました。
この霊とまことの礼拝ができるようになると、アブラハムと同じ経験をします。
すなわち、天地創造をなさった造り主であられる神が、自分の父親として、親しく臨んで下さるのです。その右には、御子であられるイエス・キリストがいます。
創造主であられる神が、自分に臨んで下さっているという感覚。その経験。筆舌に尽くせないものがあります。
私は、数年前に、使徒的教会と呼ばれる教会の一つにいて、賛美礼拝の中で、いわゆる臨在を何度も経験しましたし、代表的な米国のベテルチャーチを訪問して、すばらしいスポンテニアスワーシップを経験しました。あの時の臨在はものすごかったです。天から臨在がシャワーのように降り注ぐ経験をしました。
その「臨在」とは異なる経験をするのが、本当の聖霊をいただいてする霊とまことによる礼拝です。
一言で言うなら、神はリアルです。
リアルな方として、そこに臨んでおられます。臨在のような感覚的なものではありません。
リアルな神、そう、モーセに現れた「『私はある』と言う方」(I AM what I AM.)
そう言う、存在そのものであられる方が、それも、天地創造をなさった全知全能であられる方が、そこにおられる。私と、霊によって、交わっていて下さる。そう言う経験です。
これを、ヨハネは、ヨハネの手紙第一で「御父と御子との交わり」と書きました。
そう言う経験をするのです。