平安と秩序がそこに満ちている - 神の国の特質(2) | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Pedro Szekely

 

「神の国」が自分のところに現れている状態は、イスラエルの人たちが「生ける神」と言った天の父と、同じくイスラエル人だったペテロが「生ける神の御子」と言ったイエス・キリストとが、自分のところに、一緒にいて下さる状態です。

イエス様のお言葉を守れば天の父とイエス様とが一緒に来て、その人と共に住んで下さるということは、ヨハネの福音書で、イエス様ご自身のお言葉として記されています。

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます
ヨハネ14:23

この「わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」というところが、私も十数年、三位一体の教会(私の場合は、ペンテコステ教会とプロテスタント教会と使徒的教会の3つ)にいて、よくわかりませんでした。

しかし、悪霊の追い出しを積極的にやるようになって、自然と、三位一体の神理解を捨てなければならないように仕向けられました。それはつまり、ヨハネ福音書14章〜17章で御子イエスが説明している本当の神の理解。つまり、父と子と聖霊が一緒であるというような理解ではなく、父がいて、子がいる。父は子にあり、子は父にあるという関係。しかし依然として、父と子の間には区別がある。まして三位一体などではない。御子イエスの言葉でしか、父と子の関係を正確に説明できない…。その他の神学的な解釈は一切無意味。そういう神の理解に導かれて、大祭司であられる御子イエスを通じて、天の父を見上げると、お二方の神は、親しく、私に臨んで下さる…。

そのような関係にあって、主イエス・キリストのお言葉を守ると、天の父も、主イエス・キリストも、一緒に私のところに来て、住んで下さる。まさにヨハネ14:23に書かれてある通りになるのです。

このようにして、徐々に、わかってきたのです。

○天の父と主イエス・キリストが共に来て住んで下さるのが「神の国」

そうして、天の父と主イエス・キリストが、私と一緒に、というより、初代教会が回復した私たちの教会、主イエスと食事をする教会の兄弟姉妹と一緒に住んでいて下さるということを経験すると、実に、多くのことがわかってきます。

天の父と主イエス・キリストとが、信仰を等しくする兄弟姉妹の所に来て、一緒に住んでいて下さる状態は、まさに神の国です。

そうして、その神の国の特徴として、言葉にするのが難しいような、極めて、上品な静謐さを持つ平安があり、かつ、秩序があります。平安と秩序。それが、すうーっと自分や周囲や部屋や建物や周囲に生えている樹木や草花。その辺りを飛んでいたり枝に止まっていたりする鳥。そうしたものを、主イエス・キリストにある平安と秩序が、言葉に尽くせないような染み渡り方で、そこに、ある。平安と秩序が神によって生きた状態になって、そこに満ちている。そう。まさに、満ちているとしか言いようがない状態。平安と秩序がそこに満ちている。そういう静謐な感覚。それがあるのです。

それが神の国の特徴だと言えましょう。パウロは次のように書いています。

なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
ローマ14:17

「義と平和」は、上で書いた「平安と秩序」に相当します。「聖霊による喜び」は「平安と秩序がそこに満ちている。そういう静謐な感覚」。そういうことだと言い換えられます。

これはまさに黙示録の最後の方で書かれている「神の幕屋が人とともにある」の成就だと言って良いでしょう。


「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。
黙示録21章