Courtesy of Julie Falk
聖書に書かれていることしか起こらないし、聖書に書かれていることは必ず起こります。
パウロやペテロが宣教していた頃の初代教会では、そのことがよく踏まえられていました。使徒の働き、パウロ書簡、ヤコブ、ヨハネ、ペテロの手紙。いずれも、そうした信仰に基づいて活動していた初代教会の中身をよく伝えています。
これとは全く教会が、現在のキリスト教会です。教会に通うようになり、聖書をよく読んでいく中で、普通は誰もが、「聖書にこう書かれているのに、なぜ、私が通っている教会では、そうなっていないのだろう?」という疑問を持ちます。
その疑問は、牧師に聞いたりしても、よく納得できる答えが返ってきませんし、教会に通い続けるうちに「キリスト教会とは、そういうものなのだろう」と変に納得してしまって、その疑問を目の前にある教会活動の諸々に埋めてしまいます。そうして、10年20年と過ぎて、気がつけばその人は教会の中で老年になっており、そうして、死を迎えます。
○その疑問は正しい
実は、「聖書にこう書かれているのに、なぜ、私が通っている教会では、そうなっていないのだろう?」と疑問を持つのは正しいのです。
なぜなら、パウロやペテロが宣教していた頃のキリスト教会=初代教会(英語ではEarly church)と、パウロやペテロが死んで200年程度が過ぎて、教会の中の構成人員がパウロやペテロから見て三代目、四代目、五代目と世代交代が起こり、時代環境の変化や、イエス・キリストの福音を霊的に押し潰そうとする敵の霊の働きが勝るようになって、実際に、聖霊とは全く異なる霊を持った人達がその200年後のキリスト教会にはびこるようになる。そうして、パウロやペテロが宣教していた教会とは全く異なる教義が横行するようになる。そうして、325年ニカイア公会議が開催され、ローマ帝国領内に1800名いる司教達に招集状が出され、うち300余名がニカイアに集まって、その時代なりの教義を議論する。そうして、この公会議において初めて、「多数決によって正統と異端を決める」というやり方が採用される。それによってアリウス派が異端と定まる(資料を読むとアリウス派が異端だというのは正しいと思います)。
381年には原ニカイア信条を更新するものとして、ニカイア・コンスタンティノポリス信条が定まる。これも多数決を原理として、これが確定する。そうして三位一体という教義が確定し、聖書の神について三位一体の理解があれば正統、三位一体の理解でなければ異端ということで、これも多数決によって定まる。そのようにして、悪魔的な結構を持った三位一体がキリスト教会を支配するようになる。この間、200年から300年。
この200年から300年のうちに、キリスト教は全く変質してしまったのです。パウロやペテロが宣教していた1世紀から2世紀にかけての初代教会とは全く異なる教会が、3世紀〜4世紀にかけて忽然と現れ -- その背後には当然ながら本当の神であるイスラエルの神とその御子イエス・キリストに反抗する霊、サタンがいる訳です -- 初代教会とは全く異なる教義をキリスト教会にビルトイン(埋め込む)。その頃の初期神学者(教父と呼ばれる人達も含まれます)や司教達(相互の按手によって叙任されます)はアリストテレスやプラトンに代表されるギリシャ哲学を基礎的な素養として持ち、まずギリシャ語でギリシャ哲学的に神を論じるのが慣行です。こういう中でパウロが宣教した異邦人に対する福音はかき消されてしまっています。彼らにはすでに神に選ばれた民ユダヤ人に対する異邦人という意識がありません。
そうして当時の時代風潮として、神のことを論じるのに、グノーシスと呼ばれる、知恵の神であるソフィアを最高位に置く知識体系/神学体系/神に関する理解のシステムの影響を受けて、グノーシス的に聖書の神を論じます。また同様に流出論(Emanation)と呼ばれる一種の神秘主義によって世界創造や人間の創造を論じる新プラトン主義の影響も受けています。そうした影響を受けた上で、ギリシャ哲学的な論理によって聖書の神を論じるのです。これはもはやユダヤ教の背景の上に、神の国の福音を伝えていたイエス・キリストの信仰の世界ではありませんし、ヘブル書などに見られるユダヤ人的な背景の上に主イエス・キリストの信仰があるパウロの宣教していた福音ではありません。全く異なる信仰。全く異なる教義。全く異なる聖書の神の理解。そうしたものが、これらの初期神学者達、司教達によって論じられ、そのようにして325年のニカイア公会議が持たれ、381年のコンスタンティノープル公会議が持たれて、三位一体という悪魔的な結構を持つ -- なぜならば三位一体にあらざれば異端という恐怖によって支配するから -- 恐ろしい、人工的な神が、キリスト教会を支配していくようになったのです。
それがあるため、現在の三位一体を掲げているキリスト教会群 -- それはすなわち「異端」とレッテルを貼られることを極度に恐れるキリスト教会群ということです -- では、使徒の働きの内容と異なる教会活動が行われており、聖霊に関するパウロ書簡の記述とは全然違う聖霊の状況がある -- つまり本当の聖霊はこれらのキリスト教会群にいないし信徒にも下っていない -- ということになっています。
○「神の愛」はご自身がお選びになった一人ひとりに働かれる
本当の神であれられるアブラハムに現れた神。モーセによってイスラエル人をエジプトから脱出させ、40年後にカナンに入らせた神。つまりイスラエルの神は、御子であるイエス・キリストと共に、何をなさろうとしていらっしゃるのか?
「神の愛」とはどういうものなのか?
現行のキリスト教会群では -- 三位一体を掲げ異端とレッテルを貼られるのを恐れる限りは -- 全く理解できない「神の愛」があります。
主イエス・キリストによって「唯一のまことの神」と紹介されたイスラエルの神であられる天の父は、エペソ1:4に書かれているようにご自身が天地創造の前から、主イエス・キリストに似るように選ばれた方を、主イエス・キリストの言葉によって整えて、ご自身の霊である聖霊を下らせて、ご自身の民として整えた上で、現在の神を神とも思わない人達があふれて御心には全くそぐわない世界となっている「この世」から引っ張り出し(出エジプトのように)、「神の国」に入らせ、アダムに与えた祝福「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」そのままに繁栄する…。それを見たいのです。
ご自身の民が、主イエス・キリストの新しい戒め「互いに愛し合いなさい」を守って、生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」によって繁栄する…。その様を見たいのです。
そのために、ご自身の民に、主イエス・キリストの全てを差し出して、罪から洗い、かつ、ご自身の霊である聖霊を下させて、本当にご自身の息子や娘になるように、霊の上でも整えて、シャキッとさせたいのです。もちろんサタンや悪霊の影響から完全に脱して、肉体的にも霊的にも聖なる者となるように、イエス・キリストの名と権威を「信じる人々」に授けて、互いに悪霊を追い出しあい、聖なる者となる道をご用意されているのです。
ご自身の民を愛して愛してやまないので、御子であるイエス・キリストを、アブラハムにイサクを「ほふりなさい」と命じられたように、ご自身の御子を購いの犠牲としてほふり、その命を差し出して、この十字架を通じて聖なる者とされなさいと、全てを差し出しておられるのです。
そうして、そのように聖別されたご自身の民を「神の国」に招き入れて、アブラハムやイサクやヤコブと一緒に祝宴を開きたいのです。
あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。
マタイ8:11
それに必要な全てのことを、主イエス・キリストを通じてなさる、そのためにご自身がお選びになった一人ひとりを、どこまでもどこまでも整えて下さる。それが神の愛です。
それを、今、示されました。