幸せが安定していて去らない - 神の国の特質(1) | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Pedro Szekely

 

三位一体という4世紀の神学者、司教達が人為的に作り上げた神の下では、それが偶像な訳ですから、祈っても聞かれないし、イエス・キリストが福音書で教えた様々な神の良いことが何も起こりません。

三位一体を離れ、パウロが異邦人に宣教した内容をよくよく吟味して、自分たちの信仰を組み立て、使徒の働きなどに記されている初代教会を回復するならば、そこに神の国がやってきます。

イエス・キリストがおっしゃるように、神の国は、目に見えるようにやって来るものではないですし、種を蒔けばひとりでに育って、いつの間にか鳥がやどれるほどの大きな枝を張るというものですし、本当に主イエス・キリストを信じている兄弟姉妹同士の間にあるものです。
これは、このようにテキストで書いても、三位一体の神の下にある司教、牧師、クリスチャンには、ちんぷんかんぷんだと思います。敵の霊によって目くらになっています。

さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

ルカ17:20-21

また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。
実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

マルコ4:26-29

○プロテスタント教会の中にある種々の偶像

残念ながら、三位一体の教会群の中では様々な偶像が担ぎ出され、崇拝されています。カトリック教会のマリアは言うまでもなく、同じ祈りを繰り返すロザリオの祈りも一種の偶像です。聖書が言う生ける神ではないです。

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
マタイ6:7

プロテスタント教会の中では、牧師崇拝が行われている所が少なくないですし、特定の御言葉を掲げる行為が、ある種の御言葉崇拝のようになっています。また、常に聖書を引用してやまない、その実信仰が全くない、信じて祈って神が動くことがない、それにも関わらずなお聖書を引用する、その聖書引用スタイルがすでに偶像です。

マルチン・ルターも偶像になっていますし、カルヴァンも偶像になっている。ウェスレー、ビリー・グラハム、チョー・ヨンギ、皆偶像のように崇拝されています。

しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
マタイ23:8

これは、1世紀の頃の本当のキリスト教が4世紀にグノーシス/新プラトン主義の影響を色濃く受けた司教達によって塗り替えられ、三位一体という偶像が担ぎ出され、イスラエルの生ける神がどこにもいなくなったから起こっていることです。本当の神が、いないのです。祈りに応えて下さる神が、これらのキリスト教会群にはいないのです。そのため、常に偶像が作り出されています。

プロテスタント教会全体において、細かな教義の差異が論じられ、常に新しい会派が生まれているのも、新しい偶像が生み出されている行為に他ならないです。本当の神は、そんなものではありません。

主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

エペソ4:5-6

肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

ガラテヤ5:19-21

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三位一体を作り上げ、神学の源流を醸成した4世紀当時の教父達司教達は、以下のような英文資料を調べてけば誰でも簡単にわかることですが、こうしたものの影響を色濃く受けていた人たちです。従って、彼らが練り上げたテキストである、原ニカイア信条にしても、三位一体の根底であるニカイア・コンスタンティノポリス信条にしても、よく読むなら、新プラトン主義的なEmanation流出論の影響を認めることができます。また、三位一体と言う、三つの神が一つであると言う考えからからして、新プラトン主義が根底にあると気づきます。曇りのない目線で、しっかりと真実を見通すなら、三位一体に虚偽があることを見抜けます。(全ての問いと答えに証拠聖句がある「ハイデルベルク信仰問答」において、三位一体のところだけ、証拠聖句がないという傍証もあります。)

神学は、インターネット上に無数に存在している英文資料によってその歴史を調べるなら、グノーシス教Gnosticismと、新プラトン主義Neoplatonismに源流があります。前者は、異教の神であるソフィア(知恵の神)を崇拝する、完全な異教です。また、パウロが、テモテにグノーシスを避けなさいと教えています(第一テモテ6:20)。

新プラトン主義は、Emanation(流出論)と言う、ある種の天地創造論によって世界の成り立ちを説明する神秘主義思想であり、創世記で記されているイスラエルの神の世界観、神理解とは全く異なる信仰、全く異なる神理解、全く異なる天地創造および人間の創造を信じている、これもまた異教です。

Emanationism - Wikipedia
 
Emanation in the Eastern Orthodox Church - Wikipedia

Stanford Encyclopedia of Philosophy: History of Trinitarian Doctrines

そうして、そのような神学的な結構を尊ぶのが、知恵の神であるソフィアが支配するグノーシスです。その影響を、三位一体を掲げる全ての教会の司祭達、牧師達が受けていて、手も足も、がんじがらめに縛られているのです。そこから、出ることができません。神学の奴隷です。

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○好調、不調が波のように入れ替わることがない

イスラエルの生ける神であられる天の父を、御子である主イエス・キリストを通じて、本当の聖霊をいただいて礼拝する神の国では、幸せは安定していて、その人を去ることがありません。正確に言うと、この神の国は、主イエス・キリストの新しい戒めである「互いに愛し合いなさい」をどこまでも守り抜こうとする兄弟姉妹の「間に」目に見えない形で存在しますので、この幸せは、安定していて、「その人たち(複数)から去ることがありません」。これは、いつも波のように好調、不調が入れ替わっている三位一体の教会群にいる人達にとっては信じられないことだと思います。

神の国がやってきて、そこにいるキリスト信徒たちにやって来る恵みや祝福は、イエス・キリストが宣べ伝えているように多くの事柄に渡りますし、パウロの書簡にもある通り多彩な様相を帯びます。

決定的なものは、「幸せである」ということです。この「幸せ」は、神ご自身が常に不変であられるのと同様に、安定していて、その人を去ることがありません。

イエス・キリストは、そのあり方を、次のように表現しています。

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。
ヨハネ7:38

また、この「幸せが、安定していて、去らない実感」は、唯一のまことの神であられる天の父の、本当の子供になっている安心感とも結び付いています。現在も、天地万物に働いていらっしゃる天の父、あなたの、私の、髪の毛一本ですら数えていらっしゃる天の父が、あなたの、私の「父」として、常に愛を注いで下さる訳ですから、幸せが安定していて去らないのも、全くもっともなことです。

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
ヨハネ17:3

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
ヨハネ1:12

五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。
それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

ルカ12:6-7

主イエス・キリストにある本当の幸せ、本当の自由、本当の祝福が、常に安定していて、その人を満たすのです。これは、本当です。

私も、2001年にクリスチャンと言われるものになってから、20年程度、三位一体の中にいて、三位一体を疑うことを知りませんでしたから、その頃のことがよくわかりますが、偶像である三位一体の下にいては、イエス・キリストそのものが偶像として、人がこしらえた教義や聖書解釈に基づいて信じられていますから、イエス・キリストの贖罪も、絵に描いた餅になっています。ペンテコステの日に初代教会のメンバーに下った本当の聖霊も、それらの教会群の中にいては下りません。

イエス・キリストが偶像であって、聖霊もいないとなれば、この世の人、肉の人と全く同じです。御霊の人として歩みようがありません。
それに加えて、そこには、天の父が不在です。天の父を知らないということが、どういうことなのかこの投稿で書きましたが、それが、どれほど恐ろしいことか、これらの教会群にいる人達は口を酸っぱく言って述べたててもわかりません。霊的な盲目があります。福音に覆いをかける神の敵である霊に制圧されています。

こうした、天の父もいなければ、イエス・キリストも偶像であり、聖霊も下っていない教会群にいては、神の国は、経験しようがありません。神の国について、これらの教会群から、明確な証言が出てこないのも、無理のないことです。三位一体の偶像の神の下では、神の国など、存在しようがないからです。

神の国、イコール、1世紀の頃の初代教会そのままのキリスト教会であり、兄弟姉妹がフラットな関係にあって、互いに愛し合う、主イエス・キリストの命令そのままに、そこに互いに愛し合う兄弟姉妹がいるからこそ、彼らがイエス・キリストの弟子だとわかる、そうした教会です。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

ヨハネ13:34-35

このような神の国に入ってしまうと、幸せは、安定して、去ることがないのです。