Courtesy of Terry Goodyer
パウロは何箇所かで奥義を記しています。奥義はギリシャ語で「ムステリオンMustérion」。
辞書で確かめると、
3466 mystḗrion (the root of the English term, "mystery") – mystery. In the Bible, a "mystery" (3466 /mystḗrion) is not something unknowable. Rather, it is what can only be known through revelation, i.e. because God reveals it.
和訳
Mustérionとは、聖書においては、知ることができない何かであるのではなく、むしろ、啓示を通じて知ることができるものを指す。なぜなら、神がそれを開かれるから。
だそうです。
パウロが記していた奥義も、主イエス・キリストがパウロに啓示したもの、あるいは、神である天の父がパウロに啓示したものです。
この、啓示によって知らされた奥義ムステリオンは、論理的に文脈を組み立てて理解できるというようなものではなく、また、何かとの比較によって知られるものでもなく、また、何かから類推することによって知られるものでもありません。直接的に、神から教えられて、直接的に知るのです。
○本当の聖霊が下るならば、その人は神の人に造り変えられる
以下の第一コリント15章50-51節、およびそれに続く節には、ディスペンセーション主義の神学によって、ある解釈がなされていることは知っています。しかし、その解釈はskubalonです。人間から来た浅知恵に過ぎません。
兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。
第一コリント15:50-51
ここで言われているのは、人間が、本当に、主イエス・キリストを信じて、本当の聖霊が、初代教会のメンバーと同じように、下るのならば、その人は、神の人に造り変えられ、この世にいながらにして永遠の命を持つ(聖霊と共にある自分の霊による永遠の命。物理的な肉体は死にます)、また、この世にいながらにしてその人は神の国に入る、周囲が神の国となる、すなわち、イスラエルの神が生き生きと働き、御子であるイエス・キリストが常に執り成して下さる…。つまり、一言で言えば、この世の人とは全く違った存在になる。それが一瞬にして起こる。そういうことを言っています。
これは、神学で神を論じている人達には絶対に理解できない世界であり、神からの啓示によるか、神が直接的に働いて起こる経験によってしか理解できない世界です。本当の聖霊が下るとは、そういうことです。
悲しいことに三位一体を掲げているキリスト教会が、千数百年にわたって続いてきています。カトリックも、プロテスタントも、ペンテコステも、その他の単立教会も。異端と呼ばれるのを恐れるがために、三位一体を否定せず、この悪しき、邪悪な偶像と(なぜなら、まことの神であられるイスラエルの神、すなわち、御子イエスによって天の父と紹介された神を、見えない存在にした、その邪悪な意図が込められているから)、共存して、無数の信者を支配してきた司教達、牧師達。それらのまさに異教徒にあっては、異教の会堂にあっては、本当の聖霊は下りません。長らく私も不思議でしたが、それは、そうだったのです。
○聖霊は天の父からアダムに吹き込まれた命の息
本当の聖霊が下るとは、創世記で、命の息を吹き込まれたアダム。そのアダムが蛇の言葉に耳を傾けたが故に失われてしまった命の息(それゆえ死が持たされた。神の命の息を持たない死)。それが、主イエス・キリストの十字架と復活により、信じる人に与えられる聖霊として、回復する/したということです。
創造主がアダムに吹き込まれた命の息。それが主イエス・キリストが十字架と復活によって私たちに与えて下さった聖霊です。ヘブライ語では「息」は「霊」です。ギリシャ語でも「霊」は「息」であり「風」です。アダムの時に失われたこれが回復して、人は、再び、生きたものとなるのです。肉体を持ちながら、死なない霊としての実体を、聖霊が吹き込まれることで、得るのです。
これが上記第一コリント15章でパウロが記していた奥義ムステリオンです。
実に、異教であるグノーシスと神秘主義である新プラトン主義に毒された司教達によって、人為的に構築された神の概念、三位一体が、千数百年にわたってキリスト教会群を支配してきたがために、わからなくなっていた、本当の聖霊。パウロの死後200年経つうちに、キリスト教会内に増殖していた、グノーシス/新プラトン主義の影響を受けた司教達。彼らは、一切、本当の聖霊を知ることがなく(なぜなら聖霊は真理の御霊であり、グノーシス/新プラトン主義のような異教を奉じる人々には絶対に下らないです)、頭の知識だけでニカイア・コンスタンティノープル信条(三位一体の教義)を組み立てていました。以降、千数百年もの間、本当の聖霊がわからなくなっていた。
(325年ニカイア公会議、381年コンスタンティノープル公会議、およびそれに前後する公会議Synodに集まっていた司教達BishopsがグノーシスGnosticismの影響下にあり、新プラトン主義Neoplatonism者でもあったということを示す文献、論文はインターネットに夥しく存在しています。以下は一例です。
Early Christian History - What Didn’t Happen At Nicæa
Neoplatonism and Christianity
)
本当の聖霊とは、使徒の働きに書かれているように「力 デュナミス」です。(この投稿の「奇蹟」「力あるわざ」についての聖句およびその説明を参照)
これは、創造主から来る命の息です。それを吹き込まれた人は、神の人になるのです。それこそが聖霊のバプテスマです。
第一コリント12章にある御霊の賜物も、創造主であられる神、すなわち、天の父から来る命の息が、その人に吹き込まれて、神の人となっている、ということを踏まえてみれば、実に明快に理解できます。
○エペソ1:4:選ばれた人だけがイエス・キリストを信じ聖霊をいただくことができる
私は、これを、いかに一生懸命力説しても、実は、ほぼ全ての人が理解しないということを、知っています。
このことは、エペソ1:4にあるように、世界の基が据えられる前から、主イエス・キリストに似るように選ばれた人しか、知ることができない、ないし、経験することができないことです。このことも、何年もかけて、おかしいなおかしいなと思いながら、キリスト教会の中で起こっている出来事や人々のことを見ながら、自問自答して来ました。果たして、みんな、イエス・キリストを本当に信じているのかと。教会に来て、洗礼を受ければ、クリスチャンになったと思っているけれども、聖霊がいないことを鑑みれば、本当にイエス・キリストを信じたと言えるのかと。
答えは、エペソ1:4と、第一ペテロ1:2に書かれていました。
すなわち、神(天の父)は私たちを世界の基の置かれる前から彼(主イエス・キリスト)にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
エペソ1:4
父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
第一ペテロ1:2
また、神が民を選ぶ神だと言うことについては、旧約聖書、新約聖書の様々な箇所で書いてあります。天の父に教えられなければ、主イエス・キリストの下に来ることはできないと、御子も教えています。
つまり、天の父によって、選ばれた人だけが、この奥義を知ることができるのです。
また、天の父によって、選ばれた人だけが、本当の聖霊を受けるのです。これは、三位一体を掲げるキリスト教会が千数百年に渡って運営の基本としてきた「教会で洗礼を受ければその人は救われる」という考え方と、真っ向から対立する真実です。教会で洗礼を受けていようがいまいが、天の父に選ばれている人は、どうにかして、主イエス・キリストの救いにたどり着くのです。それこそが「あなた方は神の作品です」と書かれているゆえんです。
使徒の働きでは、あの時代に、ユダヤの地にあった人や、小アジアの地にあった人々の中から、天の父に選ばれた人たちが、使徒たちの宣教活動によって発見され、バプテスマを授けられ、また、聖霊を受けて行きました。
あの、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、予め、天の父に選ばれていた人が、使徒たちやイエス・キリストの弟子によって見出され、バプテスマを授けられ、聖霊を受けていく活動。それが、4世紀には、ローマ帝国領内で1,800名もいたとされるグノーシス/新プラトン主義で霊的に汚れた司教達によって、駆逐されて行ったのです。その後にできたキリスト教会は、初代教会とは似て非なる…というより、全く異なる宗教となっていました。それはキリスト教でも何でもない。たとえ歴史的にキリスト教だと言われているとしても、それは、パウロが宣教したキリスト教会ではないし、イエス・キリストが教えた弟子たちによる教会でもない。
選ばれてもいない人を、教会に連れて来て、受洗させて、それで信者にしている。
しかし、その信者は、選ばれていないので、聖書を理解することはできず、聖霊を受けることもできない。死後、天国に行くという、パウロが宣教してもいないし、イエス・キリストの神の国の福音とも全く異なる、3世紀から4世紀にかけて新プラトン主義の影響を受けて成立したとされる異教の教えを、唯一のよすがとして、死んでいく。これこそが、神に反する者、サタンのやり口に他なりません。