クリスチャンに聖霊がいないという問題 - 三位一体の何が問題か?(4) | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Stanley Zimny

 

○プロテスタント/ペンテコステ教会が、信者には聖霊がいると教えている根拠

 

なぜ、牧師もクリスチャンも、汚れた霊や悪霊を見分けることができないんだろう?なぜ、牧師やクリスチャンは、預言に対して怯えるような態度を示し、預言を否定し、預言のことを言うと毛嫌いするのだろう?

数年間、繰り返し、繰り返し、これらの疑問を繰り返し問うていった結果、たどり着いた結論は、「クリスチャンには聖霊がいない」と言うものでした。

プロテスタントほぼ全ての教会では、誰も聖霊によるのでなければ「イエスは主です」と言うことができない(第一コリント12:3)を根拠として、教会に入会する求道者に「イエスは主です」と言ってもらい、かつ、水のバプテスマを授けることによって、その人は主イエス・キリストを信じる者となり、聖霊が下ったと教えていますし、信じています。

ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。
第一コリント12:3

水のバプテスマは、マタイ28:19を根拠として、「父と子と聖霊の名によって」授けられるため、このバプテスマが授けられることによって、その人には聖霊が宿る、と考えられていることも確かです。

また、多くのプロテスタント教会が、教義の根幹に据えている使徒信条には、以下のようにあり、「聖霊を、私は信じます」と告白することによって、その人には、聖霊がいることになると、解釈していると取れます。

聖霊を、私は信じます。 また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。

さらに、カトリックであるとプロテスタントであるとペンテコステであるとを問わず、父なる神と、子なるイエス・キリストと、聖霊とは、三位一体である訳だから、イエス・キリストを信じれば、聖霊なる神もやってきて、その人に内住する。そのように考えている訳でもあると受け止めます。

○聖霊がいなければ、地獄に行く可能性が極めて大きい

しかし現実問題、新約聖書の数多くの聖霊に関する聖句、御霊に関する聖句に照らせば、現代のプロテスタント教会信者、および、ペンテコステ教会信者に聖霊がいないことは明らかです。

たとえ、ペンテコステ教会に所属していて、異言で祈ることができる人がいたとしても、私は、現在は、それは「異言の霊」ないし「リバイバルの霊」と呼ぶことができる悪霊、すなわち、聖霊ではない霊によって、異言らしきものを口から出しているだけだと断言します。もしその人に本当の聖霊がいれば、パウロが第一コリント12章で書いているような、複数の御霊の賜物があるはずであり、異言だけ、と言うのはあり得ないです。また、さらに、霊を見分ける賜物がくっついているのが普通であり、異言で祈る人が悪霊を見抜けないと言うことは、聖書に基づく論理で言って、あり得ないです。論理的に言って、ペンテコステ教会で異言で祈っている人は、「異言の霊」ないし「リバイバルの霊」と呼べる悪霊によって異言を出しています。

なぜ、ここまで言うのか?
なぜ、ここまで言わなければならないのか?

もし、その、クリスチャンと呼ばれている人、自身もクリスチャンだと思っている人に、仮に、聖霊がいないのであれば、その人は、地獄に行くからです。

主イエス・キリストが教えている内容に基づけば、麦と毒麦が御使いによって分けられ、毒麦に分類された人は、火の燃える炉に投げ込まれます。(マタイ13章)

素朴な疑問として、聖霊がいない人が、麦に分類されると思いますか?

(私はここで、この問題の根源が、三位一体と言う偶像=人が作り上げた神を、教会として教え、掲げているがゆえに -- それは異端と呼ばれたくないがために -- 諸々の問題が起こる、ということにあると言っています。単に、ここの聖書の聖句の解釈の問題ではないです。教会として、そもそもが、間違った所にいる。それがゆえに、無数の問題が生じていて、結果、信者は地獄に行く。それが大問題だと言っているのです

○聖霊は、はっきりと、その人に告げる

聖霊は、これから起こることを、その人に告げます。
これは、天の父の御心として展開している天の父のご計画。それに関して、天の父がこれからなさろうとすることを、聖霊が聞いて、その人に教えるのです。単なる予知とか"予言"とは全く異なります。「聞くままを話す」とは、天の父から聞いて聖霊が話すと言うことです。天の父とは、天地万物を創造したまいし神であり、アブラハムに現れた神、すなわち、イスラエルの神です。

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです
御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

ヨハネ16:13-14

プロテスタントのキリスト教会の中にいる人は、不幸にして、聖霊から何かを教えられたと言うことがないです。聞いたことがないです。兄弟姉妹同士の会話として、「何かを示された」「聖霊に促された」「聖霊に導かれて」と言う表現を聞くことはあります。しかし、それは、錯覚です。

聖霊が「聞くままに話す」「やがて起ころうとしていることをあなたがたに示す」とは、もっと、はっきりと、完全にわかるように、それが、天の父から来たことがはっきりと理解できるように、話したり、示したりします。

---- 注釈 ----
ここで、この投稿で書いたように、聖霊は神ではない、と言うことに、よくよくご注意下さい。聖霊は、神の霊。ヨハネ14章〜17章を熟読すると、聖霊は、天の父から、御子イエスの名によって、信じる人に遣わされる「霊」です。「霊」は、無から有を創造する神ではありません。「霊」が創造することはできないのです。聖霊は「神からくる」「霊」です。天の父から御子イエスの名によって信じる人々に遣わされる「霊」です。神ではありません。

4世紀に成立した、具体的には、381年のニカイア・コンスタンティノポリス信条として定式化した三位一体の神に関する信仰告白では、聖霊については、わずか、4行が与えられているだけです。

いわく
「わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。
聖霊は、父と子から出て、
父と子とともに礼拝され、栄光を受け、
また預言者をとおして語られました。」


以上です。これを以って、三位一体を掲げる全てのキリスト教会では、聖霊を「信じている」のです。しかし、いかに、テキストに基づいて信じようが、聖霊は「風」です。吹きたい所に吹く、宿りたい人に宿る。そうした自発性がある神の霊です。「私は聖霊を信じます」と言う人に、聖霊が宿るわけではない。まして、聖霊は真理の御霊です。ヨハネ14:17、15:26、16:13

三位一体と言う人がこしらえた神を掲げる嘘のキリスト教会には、真理の御霊は、絶対に宿りません。
---- 注釈終了 ----

○聖霊によって、神から言われたことを言えば、預言になる

従って、「聖霊に導かれる」と言うこと。
「聖霊に促されて、目の前にいる人に、何かを言うように迫られること」。
「聖霊が、何かを、書きなさい」と明示的に促すこと。
それは、あることであり、その一部は、預言と聖書に記されている「神から来た言葉を語ること」と言う行為になります。

また、主イエス・キリストの十字架と復活以降は、黙示録に、「イエスの証しは、預言の霊」(黙示録19:10)とあるように、預言は、広い意味で、主イエス・キリストに関する何かを証しする行為となります。

預言は、そのように、聖霊をいただいた人に、わかりやすく言えば、「付いて回る」、神の霊の活動です。
よって、預言を遠ざけたり、否定したり、預言について及び腰になっている人は、まさに、聖霊とは縁がない人、すなわち、聖霊がいない人と言うことになります。

これが2017年に預言者として召命を受け、色々なキリスト教会の色々な人々に直接的間接的に接して得られた、私の結論です。

○霊を見分ける力とは、どういうものか?

聖霊がいれば、その人は、霊を見分けます。これも、悪霊の追い出しに数年間携わって得た結論です。

逆に、聖霊がいなければ、霊を見分けることができません。

悪霊の追い出しとは、キリスト教コミュニティ一般で考えられているように、特殊な器を神からいただいた特殊なミニスターのみができる、と言う、ある種、キワモノ扱いされている、そうしたミニストリーではないです。

イエス・キリストを本当に信じている人なら、誰でもできる、そう言うミニストリです。

事実、主イエス・キリストは次のようにおっしゃっています。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
ヨハネ14:12

主イエス・キリストを信じる人は、主イエス・キリストと同じ業、すなわち、病人を癒し、奇蹟を行い、悪霊を追い出すのです。

これは、聖霊が、「力と愛と慎みとの霊」とあるように「力デュナミス」を持っているから、できることでもあります。

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です
第二テモテ1:7
英訳
ギリシャ語原典


ギリシア語デュナミスとは、福音書の数カ所で、「奇蹟」と訳されたり、「力ある業」と訳されています。英訳聖書でも同様です。

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
マタイ7:22
英訳 
ギリシャ語原典

そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった
マタイ13:58
英訳 
ギリシャ語原典

それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
マタイ11:20
英訳 
ギリシャ語原典

安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。
マルコ6:2
英訳 
ギリシャ語原典

それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。
マルコ6:5
英訳 
ギリシャ語原典

しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。
マルコ9:39
英訳 
ギリシャ語原典

イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、
こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」

ルカ19:37-38
英訳
ギリシャ語原典

○聖霊がいないから、霊を見分ける力が備わらない

悪霊を追い出す際に不可欠なのが、悪霊を見抜くことです。悪霊を識別すると言っても良いでしょう。その人に住んでいるのが、悪霊なのかどうか。悪霊だとすれば、どう言う悪霊なのか。強いのか、弱いのか。日本の仏教から来る悪霊なのか、欧米の悪魔崇拝から来る悪霊なのか。ギリシャのデルフォイの神託にまつわる神から来る悪霊なのか。等々。

キリスト教会の中にも、悪霊を強く感じることがあります。どの会派とは申しませんが。偶像崇拝が強く行われている教会には、はっきりと、悪霊の存在を感じます。礼拝堂の中の写真を見ただけで、悪霊がいることがわかり、気持ちが悪くなります。

また、プロテスタント教会やペンテコステ教会の牧師で、個人崇拝が強くなされいる当該牧師にも、悪霊の存在を強く感じることがあります。十戒できつく戒められた、実に忌まわしい偶像崇拝が、教会の中で行われています。

Twitterの投稿や、ある特定のキリスト教関連のブログサイト(個々の投稿ではなく、そのサイト自体)に、悪霊の存在を強く感じることもあります。その投稿主、ブログ執筆者においては、非常に忌まわしい偶像崇拝、ないしスピリチュアリズム行為が行われており、それが、聖霊によって、教えられるのです。

第一コリント12章にある御霊の賜物の一つ「霊を見分ける力 Discerning of spiritst」とは、聖霊が、「そこに悪霊がいるよ」と教えてくれることです

この霊を見分ける力が、非常に不思議なことに、ほぼ全てのキリスト教会関係者には、ないのです。

YouTube動画で、米国系ミニスターのいわゆるスーパーナチュラルな証しや教えに日本語訳をつけて配信しているLと言うキリスト教関連動画配信主体には、非常に参考になる動画がある一方で、悪霊を強く感じて、到底、見ることもできない、クリックすることもできない、その動画のタイトル画面を見ただけで、聖霊が強く拒否反応を示す。そうした画像が無数に掲げられています。これもまた、霊を見分ける力がないが故の弊害です。多くの何も知らない人たちが、このサイトの、悪霊がうようよする動画を見て、毎晩のように霊的に毒されているかと思うと、まったく、言葉がないです。

詰まるところ、聖霊がいないから、霊を見分ける力も備わらないのです。
そこに悪霊がいてもわからない。教会の中で、悪霊に憑かれた主任牧師が礼拝メッセージをしていても、わからない。キリスト教関連サイトで、悪霊がうようよいる動画が配信されていても、それがわからない。

そのような状況があります。

 

○汚れた偶像、三位一体と分離しない限り、聖霊は宿らない

それが全て、聖霊がいないから、その一言に尽きます。
そうして、聖霊がいないのは、聖霊が真理の御霊であるが故に、人がこしらえた嘘の神である三位一体を掲げている限り、その人や、その教会や、その会派には、聖霊が宿ることができないのです。

聖霊は神ではないですが、聖霊には気持ちがあり、悲しんだり、喜んだりします。これは、毎日のように経験できることです。
聖霊は、文字通り清らかな霊であり、汚れたところにいることはできません。


汚れたものと分離せよ。
汚れたものである三位一体と分離しない限り、聖霊は、絶対に宿りません。