Courtesy of Graham C99
○十字架の御子イエスを通じてのみ、人は聖とされる
第二コリント6:17には、「汚れたものから分離せよ」(「汚れ」は「けがれ」と読む)という趣旨の、神であられる天の父からの命令が記されています。
不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
第二コリント6:14-18
この「汚れたもの」が何なのか?はっきりと理解しなければ、「聖なるもの」もよくわかりません。
天の父は、「聖なる父」であり、聖なる高みにおられる方です。
わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。
ヨハネ17:11
「汚れたもの」から完全に分離して、自らを「聖なるもの」としなければ、天の父と交わることはできません。
従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、
あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。
それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。
第一ペテロ1:14-16
無論、肉の人間が、自分自身の努力によって「聖なるもの」になることはできません。
十字架に付けられることをよしとされた、ご自身の体を進んで生け贄として捧げられた御子であるイエスを通じてのみ、人は聖とされます。
○汚れたヒンズーの神々によって汚染され続けてきた日本
この日本は西暦500年代半ばに中国を介して仏教が入ってきて以来、ヒンズーの神々によって霊的に汚染され続けてきました。大日如来、阿弥陀如来、不動明王等々の仏教の色々な宗派で本尊として拝まれているものは、皆、ヒンズー教の神です。大日如来はマハーヴァイローチャナ、阿弥陀如来はアミターヴァ、不動明王はアチャラナータ。少し調べればわかることです。
これらのヒンズーの神々は、それぞれのキャラクターがあり、それぞれに支配のあり方、性を源泉とする力(シャクティ)があり、それを崇拝する人々を、霊的な支配によって、奴隷状態に置きます。(日本に広く見られる、ブラック企業と言う時の「ブラック」すなわち奴隷状態は、皆、そうした外来の神々がもたらす霊的な目に見えない支配から来ます。)
旧約聖書には、イスラエルの民(ユダヤ人)が、バアル、アシェラ、モレクの異教の神を崇拝するようになって、霊的に堕落する、霊的に汚れてしまうことが何度も書かれています。
アブラハムに現れた神、イスラエルの神は、こうしたバアル、アシェラ 、モレクのような汚れた異教の神、その実、天から落とされた御使いが源流となっている霊に過ぎないものとは、相容れません。共存することができないのです。
同様に、日本に古くから伝わってきた大日如来マハーヴァイローチャナ、阿弥陀如来アミターヴァ、不動明王アチャラナータ等々のヒンズーの神々、その実、霊に過ぎないものと、まことの神であられる、唯一の神であられる天の父は、共存することができません。
汚れたものと一緒にいることができない神が、天の父です。
この「汚れたもの」という感覚が、日本人には、なかなか根付かない。わからない。
○汚れたものと一緒に歩むことはできない
本当の聖霊がいれば、その人は、この霊的に「汚れたもの」を見抜くことができます。第一コリント12章に記されている「霊を見分ける力」、英訳聖書でDiscerning of spirits、霊どもを識別する能力。これによって、今目の前にいるものが、霊的に汚れているかどうか、それが聖霊から来ているものなのかどうかを、識別するのです。簡単に言えば、聖霊が知らせてくれます。
目の前にいる人が、ポルノや殺人ゲームや度重なる汚らしい性交渉やグロテスクな映画・小説・動画への没入や悪魔崇拝の音楽などによって、汚れている場合、その汚れを、聖霊が教えてくれるのです。そうした邪悪なものと契約(刺青の指輪)を結んでいる人が目の前にいるよと、聖霊が教えてくれるのです。
そうしたものに限らず、上記の異教の神を崇拝している人を、霊的に汚れているとして、聖霊が教えてくれるのです。「この人は、汚れているよ」と。
汚れている人には、第二コリント6:17が適用されます。
それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
まさにその通りです。そうした霊的に汚れた人とは、調和することが、ないのです。
不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。
そうした不信者と、真のキリスト信徒とが、同じくびきを背負って歩むことは、できないのです。
○天の父を霊とまことによって礼拝することで、聖なるものについての感覚が磨かれる
こうした「汚れたもの」に関する感覚。それは、真の聖霊から来るものですが、それがあれば、また、「聖なるもの」に関する感覚が、だんだんと磨かれていきます。
何によって磨かれるのか?
ヨハネ4章で、「霊とまことによる礼拝」と主イエス・キリストから言われている、真の礼拝を繰り返して、大祭司であられる御子イエスを通じて、まことの神であられる天の父と交わる中で、天の父がまさに聖なる父であられることを、何度も何度も味わうことになるのです。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
ヨハネ4:23-24
天の父の聖性に常日頃から触れるようになると、霊的な汚れを一切、受け付けなくなります。
汚れたものと一緒にいることができなくなります。
○どのようにして生きられるか?
一方で、この世は、この日本では、イスラエルの神と一切関係のない人々で埋め尽くされています。
どうやって生きていけばいいのか?
それは、聖書に記されている神の言葉によって生きるのです。
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
マタイ4:4
聖霊に助けられて、生きるのです。
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
ヨハネ16:13
主イエス・キリストが執り成して下さるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
ローマ8:34