Taken by me
ユダヤ人/イスラエル人であれ、異邦人であれ、主イエス・キリストにあって神の国を相続する人たちは、エペソ1:4によれば、天地創造がなされる前から、父なる神によって、選ばれています。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
エペソ1:3-4
同じことをペテロは、父なる神の「予知」によって、イエス・キリストに従うように選ばれた人たち、と言う表現で書いています。
父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
第一ペテロ1:2
○ユダヤ人/イスラエル人か?異邦人か?と言う思考法
我々日本人は、異邦人です。
これは、アブラハムに現れた神、また、イスラエルの神(出エジプト5:1、民数記16:9、ヨシュア記7:13、士師記4:6、第一サムエル1:17、第一列王記1:30、第一歴代誌4:10、詩篇41:13、イザヤ24:15、エレミヤ7:3、エゼキエル8:4など夥しい箇所)がお選びになったユダヤ人/イスラエル人に対して、私たちは、旧約聖書に記された歴史の流れの中では、イスラエルの神によって選ばれた民ではないと言う意味で、異邦人だと言うことです。
異邦人であるか、どうかと言う識別法は、あくまでも、イスラエルの神を至高の存在とし、イスラエルの神によって選ばれた民、ユダヤ人/イスラエル人を、選びの民として尊重する際に、それ以外の選ばれていなかった民は異邦人だとする、そう言う思考法です。そしてこれが、旧約聖書だけでなく、新約聖書をも貫く思考法であると確信しています。
○325年ニカイア公会議に集まった司教達には異邦人の自覚がなかった
この思考法が、あやふやになっていたり、よくわからないものになっているとすれば、それは、パウロやペテロやヤコブやヨハネが一生懸命に宣教していた1世紀の時代から、200年程度が過ぎて、パウロも、ペテロも、ヤコブも、ヨハネも知らない「教会の司教達」が、自分達が確定した教義による自分達の教会を確立しようと、全く新しい教義で教会を塗り替えたからです。
この点に関して、英語が読める方なら、ニカイア公会議に集まった司教達に関する英文資料を色々と読んでみると、かなり衝撃的なことがわかってくると思います。
当時の司教達のバックグラウンド。何を読んでいたか、何を論じていたか、どう言う宗教的な背景があったか、何を信じていたか。
それらがよくわかってみると、西暦381年のコンスタンティノープル公会議で確定した、三位一体の具体的な記述であるところの「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」の中身に、なぜ、イスラエルの神に関する記述がほとんどないのかが理解できるようになります。
そこには、これら三位一体を定めた人達に、「自分達は異邦人である」と言う自覚がなかったと言う文脈が、はっきりと現れています。
これが、現代のほぼすべてのキリスト教会に、「自分達は異邦人である」と言う自覚がないことの真因です。実に千数百年キリスト教史を遡らないと見えてこない、極めて深刻な問題です。
もし、キリスト教会であれ、キリスト信徒であれ、自分が異邦人であると言う自覚がなければ、アブラハムの祝福は正確に理解できないですし、受け継ぐことができません。異邦人に対する使徒として主イエス・キリストから召命を受けたパウロの書簡各書をよく読んでください。
また、自分が異邦人であると言う自覚がなければ、イスラエルの神とは一切、関係がありません。
そうした教会には、イスラエルの神はおられません。
すなわち、主イエス・キリストによって、天の父であると紹介された神は、そうした教会にはおられません。
信じていない神が、なぜ、そうした教会に現れることがありましょうか?
信じていない神が、そうした人達に、何か、救いに関する御業をなさるでしょうか?
もし仮に、その方が、エペソ1:4や第一ペテロ1:2にあるように、天の父によって選ばれているのならば、天の父はイスラエルの神であられますから、人生のどこかで、はっきりと、その人に「自分は、もともと、異邦人である。しかし、異邦人にも、救いを与えて下さる御子イエス・キリストによって、異邦人でありながら、アブラハムの子孫として下さるのだ」と言う信仰を、与えて下さいます。
ヨハネの福音書には何ヶ所か、父が教えて下さる、父が教えて下さるから、御子イエスを信じることができるようになると言う、御子イエスご自身によるお言葉があります。選ばれている方には、父が、「あなたは異邦人だけれども、特別に、イエス・キリストの救いに接続してあげよう」と言う意味のことを、おっしゃいます。