Courtesy of Pedro Szekely
○イエス・キリストが「唯一のまことの神」と呼んだ方、パウロが「唯一の神」と呼んだ方は誰か?
旧約聖書と新約聖書で、神が変化を被るはずがありません。旧約聖書で神であられる方は、新約聖書でも神であられます。もし、旧約聖書の神が、新約聖書の神と接続していないようなら、それは教会の教えがおかしいと思うべきです。
主イエス・キリストは、天の父を「唯一のまことの神」と呼んでいます(ヨハネ17:3)。これは1世紀に生きていたナザレのイエスの視点からみて、「唯一のまことの神」と呼んでいるのです。過去に受けてきたユダヤ教の教えを踏まえて、「唯一のまことの神」と呼んでいるのです。
同じ表現をパウロもしています。パウロは「唯一の神」と書きます。彼は当時のトップクラスのユダヤ教教師ガマリエルに学んだユダヤ教徒でした。その彼が、旧約聖書で繰り返し預言されてきたメシアとして、ダマスコへの道で現れたイエスを信じたのです。そうして苦難に満ちた宣教の中で、たくさんの書簡を書いて、次のように言います。
そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。
第一コリント8:4
↑を注意深く読んで下さい。唯一の神以外に神は存在しないと書いています。コリント教会にはユダヤ人も異邦人もいたと思われますが、その人々に対して、唯一の神以外に神は存在しないと念を押しています。
ここを読んで、頭の中で、「唯一の神」がどなたのことなのか混乱が起こるようなら、それはパウロが亡くなってから300年後に成立した、後から人がこしらえた教義である三位一体に毒されています。三位一体はとにかく、唯一の神をわからなくさせるサタニックな働きを持っています。
同様にパウロは、以下の聖句で、唯一の神が父であると明言しています。
唯一の神は、父なのです。御子イエスから「わたしの父」と紹介された方が、唯一の神なのです。
(これがわからないとすれば、三位一体から来るサタニックな霊の働きに霊的に汚染されています)
私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。
第一コリント8:6
その他にも、ローマ16章、第一テモテ1章で、同じ表現を使っています。また、パウロ書簡各書の冒頭を注意深く読むと、「神」と言う表現と、「主イエス・キリスト」と言う表現を書き分けています。それぞれが別な存在であられるものとして書いています。無心になって、パウロ書簡各書の冒頭を読んでみて下さい。
それらをよく読むと、パウロが「唯一の神」と呼んでいる方は「父なる神」であることがよくわかってきます。そして、ヨハネ14-17章の主イエスの最終説教の内容と合致します。
子なるイエスに対して、父なる神です。子であるイエスもまた、父が、唯一のまことの神だと言っています。
この神が、旧約聖書のアブラハムに現れた神であり、モーセを用いて奴隷状態のイスラエル人/ユダヤ人をエジプトから脱出させた神です。
そうして、現在私たちが見ている終わりの日(終わりの"日々"と訳せる箇所が新約聖書に複数)に、同じように、ご自身の民を、この終わりの滅びから脱出させるのです。父が、私たちを、ご自身の民として取り扱うので、私たちは、終わりの滅びから脱出できるのです。
この信仰がなければ、終わりの日に滅んでしまいます。
○神はご自身の民を「わたしの民」と呼ばれた
新約聖書で御子イエスによって「父」と紹介された旧約聖書の「神である主」。あるいは、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」。あるいは、ダビデが「イスラエルの神」と呼んだ方。この神は、「わたしの民」と言う表現で、ご自身が愛される人々を呼んでいます。
モーセに現れた時も「わたしの民」が苦しんでいるのを聞いたとおっしゃっています。
主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。
神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。
主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。
出エジプト記3章
イザヤも、神の言葉として「わたしの民を慰めよ」と書いています。
「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。
イザヤ40:1
「わたしの民」はわたしの名を知るようになる。この預言は、すでに成就していると受け止めています。
それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。その日、『ここにわたしがいる』と告げる者がわたしであることを知るようになる。」
イザヤ50:2
主は仰せられる。「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け。」
イザヤ57:14
新約聖書でも、トップクラスのユダヤ教教師ガマリエルに学んだパウロは、旧約聖書を踏まえて、次のように書いています。これは、異邦人が、イスラエルの神の子どもになる日が来ると言う預言です。そうして、それは今、成就しています。
『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」
ローマ9:26
神である父は、偶像崇拝をするものから分離せよと命じておられます。そうすれば「わたしの民」となるとおっしゃっています。聖なる父(ヨハネ17:11)は、偶像崇拝をする人々とは相容れないのです。そうして、そうした人々は、イエス様が預言なさっているように、ノアの日のようにある日、全員が滅んでしまいます。
神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
第二コリント6:16
↓の聖句。神である父が、ご自身の民であると認める人たちの心には、神自らがお定めになった律法を、その心に書き付けます。これによって、その人々が、神である父の愛される民であることがはっきりとわかります。
「それらの日の後」。これは、使徒の働きで記されているのと同じ1世紀に下った聖霊が(生ける神の御霊が)(神である父から御子イエスの名によって信じる人々に遣わされる神の霊が)、終わりの日に、それらの人々に再び下ると言うことを意味しています。4世紀以降、三位一体の偶像がキリスト教会群を覆って途絶えてしまった本当の聖霊が、1世紀の初代教会と同じように、主イエス・キリストを本当に信じる人々に下る。そういう日が来るということの預言です。
それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
ヘブル8:16
4世紀に三位一体の教義が成立して以降、イエス・キリストが「唯一のまことの神」と呼んだ方、パウロが「唯一の神」と書いた方が、どなたのことなのか訳がわからなくなって、キリスト教会群を暗闇が支配しました。
この唯一のまことの神は、アブラハムに現れた神です。父なる神は、アブラハムに現れた神です。この神を、御子も唯一のまことの神と呼んでいます。パウロが宣教していた神はこの神と、御子でありメシアであるイエスです。メシアであるイエスを通じてのみ、唯一のまことの神と交わることができます。
「わたしの民」と呼ばれる人々は、いま、どこにいるのでしょうか?
終わりの日の滅びから出エジプトできる、唯一のまことの神が「わたしの民」と呼ぶ人々は、いま、どこにいるのでしょうか?