Courtesy of Tez Goodyer
預言者と言うと、聖書をあまり読み込んでいない方は、「未来のことがわかる」あるいは「予知ができる」のが預言者だと思っているようです。以前に、何度か、Twitterで諸々を言われた時に、そのようなイメージで預言者を捉えているのだな、と言うことがよくわかりました。
○預言者は、聖書の神からメッセージを受けて、告げるように言われた人々に告げる
そうではなく、聖書で言う預言者とは、神からメッセージを受けて、それを旧約聖書で言うイスラエルの民、新約聖書で言う神の国を相続する人たちに伝える役目を、神から負った人です。
ここで言う「神」とは、旧約聖書の文脈で言う「神である主」(創世記2章、3章、出エジプト記9:30、第一列王記2:26、第一歴代誌22:1、22:19、28:20、イザヤ7:7、イザヤ28:16)。
あるいは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エジプト3:6、3:15、4:5、マタイ22:32)と呼ばれた神。
あるいは、「イスラエルの神」(ヨシュア7:13、士師記6:8、第一サムエル1:17、第一列王記8:23)と呼ばれた神のことです。
また、福音書では、この神が、御子であるイエスによって、
「唯一のまことの神」(ヨハネ17:3)、
「天の父」(マタイ5:48)、
「聖なる父」(ヨハネ17:11)
「父なる神」(マタイ6:8)
「あなたがたの父」(マタイ10:29)
と呼ばれています。
さらに、パウロの書簡では、
「父なる神」(ローマ1:7、第一コリント1:3、ガラテヤ1:1)、
「神」(ローマ1:4、1:8、第一コリント1:9、第二コリント3:4)
「唯一の神」(ローマ16:27、第一コリント8:4、8:6、第一テモテ1:17)
と書かれています。
その「神」によって、
1)御子である主イエス・キリストにあって救われるべき人々に告げるように言われたメッセージ、ないし、
2)その「神」がエペソ1:4にあるように天地創造の前から主イエス・キリストにあってお選びになった特定の人に告げるように言われたメッセージ、その他、
3)その時々の状況に応じて人々に告げるように言われたメッセージ
を、色々な媒体を通じて、あるいは肉声で、告げるのが預言者です。
○預言者は「天の父」から召命を受ける
ダマスコへの途上で主イエス・キリストと遭遇して召命を受けたパウロのようなパターンもあると思います(使徒の働き9章)。
旧約聖書では、預言者は、上記の「神」、わかりやすく言えば、福音書の中で御子である主イエス・キリストから「天の父」と紹介された「神」から召命を受けています。モーセも、エレミヤも、エゼキエルも。その他、旧約聖書で預言者と呼ばれている人は、すべて、同じ「神」から神の言葉を受けて、イスラエルの民に告げています。
従って、主イエス・キリストが天に上げられた1世紀以降、誰かに預言者の召命があるとすれば、同じ「神」から、すなわち、新約聖書で言う「天の父」から召命があると考えるのが順当だと思います。
簡単に言えば、その召命は、モーセにイスラエルの神が現れた時のような召命になると思います。
○天の至聖所に現れる、畏怖を伴う、圧倒的な、存在感のある方
2015年に、使徒的教会と言われる教会の1つにいて、「幕屋の祈り」と呼ばれている、ヘブル8章〜10章をベースにした、霊的な天の至聖所に入って、天の父と交わる祈り/礼拝のやり方を教わる機会があり、それ以降、その祈り/礼拝にしばしば取り組んでいました。
霊的な至聖所に入ると、しばらくして現れて下さる天の父は、圧倒的な存在感であり、言葉で言えないような大きさを持った方であり、ちょうど、イエス様が弟子3人(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)を連れて高い山に登られた際に現れた「光り輝く雲」のような存在であられる方です。
彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。
弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。
マタイ17:6-7
人知をはるかに超えた方ですし、上記のマタイに「非常にこわがった」とある通り、交わりが始まる前の状況は、極めて、言語を絶する「畏怖」を感じさせる方です(学生の頃に読んだルドルフ・オットー「聖なるもの」にあったヌミノーゼの究極と言えます)。
これは神がシナイ山でモーセに臨まれた時に、民が震え上がった畏怖。それにも通じます。
三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。
(出エジプト記19:16)
そのような畏怖を伴う、圧倒的な存在、かつ、想像を絶する大きさを持った方が、天の至聖所で、しばらく待っていると、現れます。