Courtesy of Damian Gadal
ヨハネの手紙第一には、神は愛であるということが書いてあります。
これは前後関係から、天の父のことを言っています。
天の父は、愛の神である。天の父は、愛であられる。そういうことを言っています。
御子である主イエス・キリストのことを言っているのではありません。
愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
第一ヨハネ4:7-10
多くの教会では、十字架にかかることを良しとされた御子イエスの愛を教えはしますが、愛する御子を十字架にかけることを、永遠の時間軸を持つご計画の中で初めからお定めになっていた天の父の愛を教えることは、あまりありません。
私も、三位一体の偶像の神の影響下にある時代は、この第一ヨハネ4章のことがよくわかりませんでした。「神は愛なり」。そうか、神は愛なのか。でもそれは実際、どういうことなんだろう?と素朴に思っていました。
○三位一体の霊的な穢れがある中では、聖なる父は御業をなさらない
三位一体の弊害があるがゆえに、ほぼすべてのキリスト教会では、天の父を知ることがないと書きました。
そのため、三位一体の下にいるうちは、天の父の愛を経験することができません。今は、そう断言できます。1世紀の初代教会が回復した教会にいて、使徒の働きに記されているのと同じ、生ける神の霊である聖霊が下るということを経験し、祈りがかなえられ、神が生きておられることの現れであるしるしや不思議を何度も経験する中で、天の父の愛を具体的に知る機会を何度も持ってみると、「ああ、これは、三位一体の教会の中にいるうちは、絶対に経験できないのだな」という素朴な理解ができてきます。
天の父は、もちろん偶像であられる方ではないですから、偶像の下にいるうちは…というより、偶像を崇拝する霊的な図式があるうちは=霊的な穢れ/偶像崇拝ゆえの穢れがあるうちは、絶対に、その方に臨みません。その方を、根本的に、天の父は愛しておられる訳ですが、具体的な御業として、その愛を現されることは絶対にありません。なぜなら、天の父は、聖なる父であり、聖なる領域においてしか、ご自身を現すことができないからです。第二コリント6章に書かれてある通りです。
キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
第二コリント6:15-18
霊的に穢れたものからは、分離しないと、聖なる父は(ヨハネ17:11)、その方を息子ないし娘として受け入れることができないのです。
聖とは、そういうものです。
聖と、穢れとは、同居することができません。
三位一体は、成立した歴史を、インターネットに無数に存在している英語のキリスト教史資料(中にはギリシャ語、ラテン語の出典を英語化したものもかなりあります)をよく調べてみると、霊的な穢れがあるグノーシス教徒(彼らは、イスラエルの神とは一切関係のない異教の神であるソフィアを崇拝する人達でした。ソフィアは知恵の神です。そこから、神学の知恵崇拝、知識崇拝が来ていることは明らかです。よって神学は霊的に穢れています)、および、同じく霊的な穢れがある新プラトン主義者(彼らは、無から有を創造する神のあり方を独自のEmanation、流出説で説明する人々でした。今で言うスピリチュアリズムです)らが相当程度存在する当時の司教達によって、今で言う多数決によって成立した教義であり、神理解です。それこそが、人が作り上げた偶像です。霊的に穢れた人々によって作られた、霊的な穢れそのものである偶像として、三位一体は存在しています。
その三位一体が信じられている所、教えられている教会、その下で洗礼を受けたクリスチャン達、それを教えているカトリックの司教やプロテスタントの牧師、それらの人々を養成する神学校。ありとあらゆる所に霊的な穢れがあります。
霊的な穢れもまた、よく理解されない事柄です。
これは、真正な聖霊をいただいて、パウロがエペソ6章で信徒が行うべきものとして書いている霊の戦いを常時行なっている人ならば、すぐに、わかることです。
第一コリント12章で、パウロは霊を見分ける力について書いています。これは英語訳ではDiscerning of spirits。霊どもをどのようなものであるか識別する能力です。そうして、これは、真正な聖霊が与えてくれる能力です。
真正な聖霊がいれば、三位一体が持っている霊的な穢れは、わかるのです。
聖霊が、それを、霊的に穢れている、それに触れてはならない、それから遠ざかりなさいと、教えてくれるのです。
とは言え、実際問題、20年なりを既存の教会で送り暮らしてきて、三位一体のことが当たり前の空気のような中で生きてきてみると、ありとあらゆる所に三位一体ゆえの聖書解釈、洗礼、神の理解、礼拝様式、祈りの定型パターンがありますから、どれがどう穢れていて、どのようによくないのかがはっきりとわかるまで、2年なり3年なりはかかります。それほどまでに、三位一体の悪魔的な影響力は染み渡っています。
○「愛にあふれた人」の愛と、天の父の愛とは全く違う
そのように、霊的な穢れがある所では、別な言い方をすれば、偶像が教えられ信じられ礼拝されている所では、聖なる父であられる天の父が働かれることはありません。その愛を経験することはないのです。過去の経験から断言できます。また、周囲にいらっしゃった数多くの牧師達、クリスチャン達の生きる姿、信じようとする姿、聖書に取り組む姿を振り返ってみても、ああ、天の父の愛を経験なさったことがない、悲しむべき状況にある方々と映ってきます…。大変に残念なことです。
人間的に、キャラクターとして「愛にあふれた方」がいらっしゃるのは確かです。既存のキリスト教会の枠組みの中でも、人格的に磨かれて、人間的に言って「愛にあふれた方」になられる方は、相当数いらっしゃいます。もちろんそれは素晴らしいことです。そうした方が先生であり、教会員として、そうした方に愛される経験もまた、素晴らしいものです。その価値が減じることはありません。
しかし、神の愛とは、天地創造をなさった全知全能であられる神であられる方が、御子であるイエス様を主イエス・キリストとして信じることで自分のお父さんになって下さる、そういう位置関係から来る愛ですから、もう人知をはるかに超えた、言葉にするのが極めて難しい愛なのです。
そう言う、表現するのも難しい神の愛が、三位一体から(第二コリント6章にあるように)分離することで、いただけるようになる。もちろん、主イエス・キリストを本当に受け入れ後で、です。
○クリスチャンになる前に天の父の愛を経験する人もいる
色々とケースを見てきた後で、言えることとして、例外的に、主イエス・キリストを信じて、水のバプテスマを受け、信仰告白をする前に、言い換えればクリスチャンになる前に、天の父の愛を経験する人がいます。しかしそれも、聖書をよく読み、クリスチャンになった後で、「ああ、あれが、天の父の愛だったのか!」と気づく、そう言う理解のされ方をします。
○天の父から愛される経験でわかった6つのポイント
天の父の愛は、何度か、経験させていただいたことを踏まえて記すと、次のような特徴があります。
第一に、主イエス・キリストが相当な深い意味を込めて「あなたがたに新しい戒めを与えましょう」と教えられた、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章)。キリスト信徒同士が、この戒めを守って、互いに愛し合う中で、天の父の愛の御業を経験する。
第二に、全知全能の神でなければなし得ないような、極めて、不思議な、人間的な理性の理解をはるかに超えた、主イエス・キリストが「唯一のまことの神」とおっしゃった、まさにそのような方から来る、出来事/出会い/解決/和解/赦し/癒し/解放として起こる。
第三に、その状況に関係している人全員に、「神様は愛なんだ!」とはっきりとわかる、極めて特別な余韻のような理解を与えられる。
第四に、その天の父の愛の御業が起こる状況に、必ず、主イエス・キリストの執り成しがある。また、その愛の御業に先立って、そこにいるキリスト信徒のうち誰か一人が、ないし数名が、ないし全員が、主イエス・キリストに祈っていた、祈り続けていたと言う事実がある。その祈りに応えて、御子である主イエスが執り成して下さり、それによって、天の父が動かれて、愛の御業が起こる。
第五に、総じて、「奇跡」と言う印象を残す。その奇跡は、「愛の奇蹟なのだ」と言う理解を、関係したキリスト信徒全員に与える。
第六に、この、天の父の愛の御業を経験すると、その複数のキリスト信徒の結束がさらに深まる。彼らは、それに先立って、「互いに愛し合いなさい」と言う主イエス・キリストの新しい戒めを守ることを選択した人々であり、すでにキリストの弟子である。天の父の、極めて不思議な、愛にあふれる御業を経験した後では、さらに、キリストの弟子として、主イエス・キリストの御言葉を守ろうとするようになるし、さらに、互いに愛し合うようになる。