詩篇を読んでいると、ダビデがしばしば「主よ、敵を滅ぼし尽くして下さい」という内容の祈りをしている場面に出くわします。
プロテスタント的な聖書の読み方だと、これがよくわかりません。「神は愛の神ではないのか?」「主イエス・キリストは敵を愛しなさい」とおっしゃっているではないか。ダビデは主イエスの教えに背いているのか?という風な解釈になってしまいます。
これは、エペソ6章で、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく…」と、霊的な戦いの基本的な心構えについて書いているパウロの勧めに従って、霊的な戦いを何度も何度も繰り返し行なっていると、よくわかってくることです。
つまり、ダビデは、サムエル記、歴代誌に記されているように、様々なイスラエルの敵と戦い続けた中で、霊的な戦いも行なっており(それはダビデが王になるきっかけとなった、ゴリアテ退治の所でわかることです。「イスラエルの神をなぶるとは何者か!」と怒りに震えて、ゴリアテに向かっていきます)、その霊的な戦いの文脈において、「敵を滅ぼし尽くして下さい!」と祈っているのです。
霊的な戦いでは、霊として存在している敵(サタンないし悪霊)を聖絶することが基本です。旧約聖書の様々な記述は、霊的な戦いのお手本として読めます。出エジプト記からエレミヤ書まで何度も出てくる「敵を聖絶せよ」という神の命令。あれは、非常に重要な意味があることなのです。
サタンや悪霊は、放っておくと雑草のようにはびこる性格を持っています。
人においても。地域においても。学校や職場においても。教会のような人間が多数集まるところにおいても、サタンや悪霊に、聖書に基づいてしっかりと対処しないならば、それらがはびこることが多々あります。
聖絶は、根こそぎにするという意味があり、そうした雑草の繁茂性を持っている敵の霊を、聖絶によって根こそぎにすることで、抜本的な対策をします。
聖絶が命じられる場面では、よく、「あなた方の息子が、彼らの娘と結婚してはならない」ということも命じられています。アブラハムの祝福を受け継ぐイスラエルの民が、別な神々を崇拝する者達の子孫と結婚することにより、霊的に混ざり合うということが起こります。聖なる方であられるイスラエルの神にとっては、ご自身が選んだ民イスラエルが、極めて汚れた、極めて忌まわしい異教の神々の霊的な影響を受けた男子、女子と結婚して霊的に混交することが、全くどのような意味でも受け入れがたいのです。それは、イスラエルの神を唯一の神として崇めるパウロが以下に記すように、受け入れ難いのです。
キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
第二コリント6章
よって、そうした敵の霊を持つ者どもが雑草のようにはびこることがないように、聖絶を命じておられました。
現在はパウロがエペソ6章で書くように、主イエス・キリストの名によって、血肉ではないもの、すなわち、人間の中にある敵の霊、ないし地域にはびこっている敵の霊に対して、霊的な戦いを行うように奨励されている時代です。従って、聖絶も、そうした霊的な戦いの文脈において行うことになります。決して、リアルに存在する異教の建物などを襲撃するような真似はしてはなりません。戦いは霊的なもの、目に見えないもの、広い意味での祈りによって行うものです。
そのような形で、霊的な戦いをたくさんやってくると、多々生じる場面が、しつこい敵、群がる敵、面倒臭い敵に対して、「どうか、天の父よ、これらの敵の霊を滅ぼし尽くして下さい!イエス様のお名前と権威によって」と祈らざるを得ない状況です。
そうした経験をしていると、詩篇の中にあるダビデの祈りが切々と迫ってきます。ああ、彼も敵と戦っていたのだなと。