日曜投稿:イエス・キリストを信じることは奇跡 | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

ガリラヤ湖 Seetheholyland.net 

 

イエス・キリストが十字架に付けられ、三日目に復活されて後、しばらくの間は「イエスが神の子であった」と証しするのは命がけの行為でした。
初代教会で信徒の食事の用意をする係だったステパノは、その証しをして、ユダヤ教の人々から石を投げられ、最初の殉教者となりました(使徒の働き7章)。



当時のユダヤ人社会では、次の事柄が常識であり、人々は「私たちはアブラハムの子孫であり、神から選ばれた特別な民である」と思っていました。

・自分たちの神は、アブラハムの神であり、イサクの神であり、ヤコブの神であった「主」である。(主:YHWH, YahwehないしJehovahと読まれることもあるが、多くの場合はヘブライ語Adonai=英語Lord=日本語・主と呼ばれる

・自分たちがモーセに導かれてエジプトの奴隷状態から脱出し、ヨシュアによってカナンの地に入り、ダビデを王としてきた歴史は「聖書」に記されている。私たちは「聖書」を守っている。(当時の聖書は、単純化すれば旧約聖書)
・ユダヤ人は子どものころから聖書を口ずさみ、聖書に書かれていることがしっかりと頭に入っているのが普通。
・ユダヤ人は、モーセが神から与えられた十戒を初めとして、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に記されている律法を守ることが責務である。律法を守らなかった場合には、石打の刑などで死ななければならないという決まりもある。

彼ら=ユダヤ人は、一言で言えば、神が定めたことを守ることが運命づけられている「神の民」でした。
神のことを行う特別な職務の人たちが代々レビ族から選ばれ、祭司、祭司長として任に就き、毎日の礼拝や特別な日の礼拝を執り行っていました。



しかも彼らは、血筋を大変に重要視する民でした。自分が誰から生まれたか、家系図を持っていました。そうして、自分の先祖をたどっていくと、必ずヤコブにたどり着き(ヤコブの12人の息子の1人に連なる)、ヤコブはイサクの息子であり、イサクはアブラハムの息子であるという風に、たどっていけば自分はアブラハムに連なる血筋の人間であるという特別な誇りを持っていました。神の民である誇りの源泉は、血筋がアブラハムに連なっていることでした。

マタイの福音書(1章)とルカの福音書(3章)に長い系図が記されていることには、そういう意味があります。つまり、イエスは系図をたどっていくと、アブラハムに連なり、そのアブラハムは最初の人間であるアダムに連なり、アダムは神がお造りになったという風に神に行き着く。そういう由緒正しい生まれのお方であるということの証明として、あの系図が記されているのです。マタイの方はマリアの系図。ルカの方はヨセフの系図です。福音書記者は、主イエス・キリストの真正性を証するためにあの系図を書いていました。

そのようにして、ユダヤ人は神の民であり、毎日の行動が神が定めた律法とともにあった人々でした。



そうした、毎日が神の定めた律法とともにある神の民のユダヤ人の前に、大工の家に生まれた「ナザレのイエス」が現れ、「神の国が近づいた」「悔い改めなさい」と説きながら、人々を癒し、必要な場合には悪霊を追い出し、特には死人をよみがえらせ、数千人の人々を満腹させるためのパンを配る神の業を行なっていました。

多くの人々は、何が起こったのかよくわからなかったでしょう。しかし一方で、旧約聖書では、メシア(救い主=キリスト)の出現が預言されていました(参考資料)。

ユダヤ人にはいつかメシアが現れ、ユダヤ人を救って下さるという信仰がありました。
そのため、目の前で奇跡を行なっているナザレのイエスが、メシアに違いないと信じた人も多くいました。彼らの言うメシアは、我々の言う「キリスト」です。「イエス・キリスト」とは、「キリストであるイエス」=「メシアであるイエス」という意味です。

主イエスは、「わざによって信じなさい」という言葉を残しておられます。

わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。
(ヨハネ14:11)

これは、自らがメシアであることを、天の父の力が働いている奇跡によって信じなさいという意味です。

一方で、ナザレ出身の大工の息子であったイエスがメシアであるとは、到底受け入れられないという人々も多数いました。大祭司であり、祭司たちであり、律法を厳格に守るパリサイ派の人たちが主です。

彼らは神の事柄を専門とする人たちであっただけに、メシア預言のことももちろんよく知っていたはずです。メシアが現れるということは理解していました。一方で、神の事柄を専門とするプライドも相当に高かったと思います。福音書の記述を読むと、彼らが主イエスの言動に嫉妬していたことがよく読み取れます。

「ナザレのイエスが祭司である私たちを差し置いて、メシアであるはずがない」
「ナザレのイエスが律法を厳格に守る私たちを差し置いて、メシアであろうはずがない」。
そのように考えていたのです。

「イエスがメシアであるとは絶対に認めない」、そのような頑なさがありました。ニコデモのような例外はありましたが(ヨハネ3章、19章)。



十字架にかけられる前の主イエスは、よく「私を誰だと思うか?」と弟子たちに質問していました。これは、復活する前の主イエスがどのような存在であるのかを、弟子がどれだけ理解しているのかを試そうとしておられたのでしょう。

さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

(マタイ16:13-15)

この時、弟子たちは、十字架に付けられたイエスを見ていませんし、復活されたイエスに出会ってもいません。福音を宣べ伝え、奇跡を行なって歩かれているイエスは見ています。
そこの部分は、主イエスを否定した祭司たちやパリサイ派の人たちと同じです。

上の質問に対して、ペテロは、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えました(マタイ16:16)。マルコ8章、ルカ9章にも同じエピソードがあり、ペテロは同じ答えをしています。

「あなたは、生ける神の御子キリストです。」とは、「(目の前にいる)ナザレのイエスがキリスト(メシア)であることを私は認めます」という意味であり、また、「(目の前にいる)ナザレのイエスが神の子であることを私は認めます」という意味でもあります。イエスが、キリスト(メシア)であり、神の子であると、ペテロは答えたのです。これは、当時の多くの人にはできないことでした。

これに対して主イエスは、「あなたに、私がキリスト(メシア)であり、神の子であると教えたのは、神である天の父です」と答えています。

するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
(マタイ16:17)

このことは、よく咀嚼すると、イエスがキリスト(メシア=救い主)であるということ、また、イエスが神の子であるということを理解するのは、父なる神が理解させて下さるからだとわかります。

大変に重要な事柄なので、もう少し噛み砕きます。

新約聖書に出てくる「イエス」が「救い主」であり「神の子」であると理解できるのは、父なる神の働きがあるからです。父なる神の働きがあるから、また、父なる神の御心によって、主イエスを正しく理解できるのです。



これに近いことを、主イエスは次のようにおっしゃっています。

そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったのです。」
(ヨハネ6:65)

ここのヨハネ6:65の前後では、主イエスの肉が天から下ってきたパンであり、主イエスの血がまことの飲み物であるという教えに抵抗して、多くの弟子がイエスの下を去ったと書かれています。つまり、主イエス・キリストを理解することは、知識として情報として理解するのではなく、天の父の助けによって、御心によって理解するということです。

従って、いま、主イエス・キリストを理解している人は、喜んで、父なる神に感謝すべきでしょう。主イエス・キリストを理解させて下さった天の父の御心に感謝する必要があります。

エペソ書の冒頭には、そのようにして主イエス・キリストを受け入れた人たちは、世界の基が置かれる前から選ばれた人だと記されています。永遠の時間にわたる神のご計画の中で、その人は永遠において選ばれているのです。

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

(エペソ1:3-7)

「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び…」。神である天の父は、主イエス・キリストを信じる私たちを、天地創造の前から、主イエス・キリストにあって選んでおられた…ということが記されています。

これは実は、とてつもない、人間の理解をはるかに超えた、神様からの助けがなければ、言い換えれば、聖霊からの助けをいただくか、主イエス・キリストご自身から教えられることがなければ理解できない事柄です。

簡単に言えば、主イエス・キリストを信じるようになったことは、神に属する事柄であり、神のご計画の中にあったことだ、ということです。人間の理解をはるかに超えたところで、主イエス・キリストにあって、永遠の時間軸の中で選びが行われています。

従って、ヨハネ6:65を読み直すと、人が主イエス・キリストを受け入れることは、世界の基が置かれる前から、主イエスにあってその人を選んでいた天の父の選びによることであり、神の御心によることだと、改めて理解できます。

そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったのです。」
(ヨハネ6:65)

そうして、その人が主イエス・キリストを信じることができるのは、エペソ1章によれば「神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」自分たちのためではなく、天の父が、御子イエスにあって与えて下さった恵みの栄光が、ほめたたえられるためなのです。神の恵みの栄光がほめたたえられるために、人は主イエス・キリストを信じ、救われるのです。



主イエス・キリストの十字架の前後に話を戻すと、当時の祭司たちやパリサイ派は、こうした事柄をよく理解しませんでした。彼らにとっての「神」は、律法を守ることの中にある神であり、それは「生ける神」ではありませんでした。

一方で、ペテロなどの十一弟子やパウロ、また初代教会の信徒たちは、ナザレのイエスがメシアであることを信じ、神の子であることを信じました。

父なる神に対して、子なるイエスという神理解は、旧約聖書の時代にはなかったもので、イエスご自身が説かれた内容です。ヨハネの福音書14章から17章にかけて、また、パウロ書簡の端々で説明されています。

イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。
今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。
わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。

(ヨハネ17:1-6)

当時の多くのユダヤ人にとって、神とはアブラハムに現れた神であり、律法を授けた神でした。また、祭司や祭司長が神殿で礼拝を捧げる神でした。
一方で、御子イエスは、自らが神の子であることを御業によって証しされ、福音を宣べ伝えられました。

当時、ナザレのイエスがメシアであり、神の子であったと信じた人々は、人口の比率で言えば、1/100にも満たなかったでしょう。1/10,000ぐらいではなかったと思います。
圧倒的に大多数のユダヤ人たちは、自分たちが神だと思っているものこそが神だと考えていた人たちでした。その人たちの元に、本当の神である父なる神の命じられたことをことごとく行う、神の子イエスが現れたのです。
そうして、神の子イエスが真に神の子であり、メシアであると信じることができたのは、主イエスのお言葉によれば、天の父によってそのように導かれた人々でした。

そういう状況で、「ナザレのイエスは、メシアであり、神の子です!」と証しすることは、ステパノのように石打ちの刑に遭う可能性がある、命がけの行為だったのです。



これに近い状況が、日本の歴史の中でもありました。江戸時代の1612年から1614年にかけて徳川幕府によって出された禁教令により、キリシタンが弾圧され、処刑された時代です。あの当時、イエズス会の宣教師によって伝えられた福音と信仰は、現在のプロテスタント教会で一般的なものとなっている信仰の内容とは異なるにせよ、主イエス・キリストを根幹に置くものであったことは間違いないようです。イエズス会とは、「主イエス・キリストの教えに従おう」という志の下に16世紀半ばに設立された修道会です。
この当時、日本にイエズス会によって伝えられていた信仰の内容を研究している文書として、以下が見つかりました(このような貴重な研究書がインターネットで公開される時代になったことを感謝します)。

宣教師の絶対的な不足という当時の状況下、直接説教を聴くことの適わなかった人々がマルチ
リヨ(Martirio=殉教)へと至った背景にはこうしたキリシタン版を通してのドチリイナ(Doctrina=教理)理解があった。キリシタン版のなかでドチリイナ文学に分類される『どちりいな・きりしたん』は、創造主宰のデウスという神概念とイエス・キリストの福音、そしてキリストの贖罪によってさずかる福音を日本の民衆に理解させることをその目的とする。そしてクルス(Cruz =十字架)上の死によって人類の罪を贖ったゼズ・キリシト(Jesu Christo =イエス・キリスト)を観想する文学が「マルチリヨ文学」である。マルチリヨ文学に属し、直接殉教の意義について説く「マルチリヨのことわり」を収めた聖人伝『サントスの御作業の内抜書』(1591 年、加津佐刊)は、『どちりいな・きりしたん』と並ぶ布教初期を代表するキリシタン版であり、フロイスら多くのイエズス会士たちによってたびたび邦訳された。このことはイエズス会が、キリシタン版の出版初期からドチリイナ教育と並行してマルチリヨ教育を行っていたことを示しているのである。
日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 : ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって。狹間芳樹、現代キリスト教思想研究会第3号、2005年、京都大学学術情報レポジトリから)

上記の引用部分が説明しているのは、イエズス会の宣教内容では、父なる神の存在と、イエス・キリストの福音と、イエス・キリストの十字架によるあがないとがしっかりと説明されていたということです。従って、当時のキリシタンは現代的な意味でのクリスチャンであったと言って間違いないでしょう(ドミニコ会など他の修道会の宣教内容についてはわかりません)。

そしてきわめて重要なこととして、当時のキリシタン=クリスチャンが、処刑されることを目の前にしても、信仰を捨てることをせずに、殉教を選んだということ。そうした殉教を選ぶ信仰のあり方が、当時すでに宣教されていたということがわかります。

当時の日本のクリスチャンにとっても、初代教会の頃のクリスチャンにとってと同様に、主イエス・キリストを証しすることは命がけのことだった訳です。



多くのプロテスタント教会では、聖書に基づく信仰告白として、ローマ人への手紙10章9節-10節の聖句を基にしています。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

(ローマ10:9-10)

このみことばも、イエスが主であると信じることが、神である天の父の御心によりそのように導かれることによって初めて可能になるということがわかってみれば、よく理解できます。
「あなたは、生ける神の御子キリストです。」とペテロが理解することができたのは、そこに天の父の御心が働いていたからでした。「イエスは主です」と告白できるのは、天の父の御心が働いているからです。

イエス・キリストを信じること自体が、一つの奇跡だと考えて間違いないでしょう。