教会は、運営する側の視点に立つと、なかなか大変な組織で、やることがたくさんあります。日曜礼拝を初めとした曜日ごとの集会の準備と運営もあります。教会の建物の改築や修理などの物理的な必要を満たすための段取りや手配もあります。教会員の成長のためのプログラム(聖書勉強会やそれに関する教材等の作成)を回さなければなりません。すでに教会員となって長い人たちへの適切な対応があり、教会に来て間もない人や初めて来た人への対応には全く異なるものが求められます。
従って、牧師ひとりですべてを切り盛りすることは、まずできない話です。毎週日曜日の礼拝メッセージを作ることも、丁寧に時間をかけて行うと週のうち3日はかかる作業です。牧師にも休日は必要ですから週に1日がお休みだとすると、残り3日。うち日曜日は日曜礼拝で朝から夕方まで忙しいですから、あとは2日しかありません。この週2日間で上に挙げた残りのすべての事柄に対応しようとすると…忙しくてダウンしてしまいますね。
そのため、教会運営には必ず、牧師を支えるチームがいて、複数の執事や、監督や、長老など、会派によって呼び方は異なりますが、それらの人が支えています。
また、それとは全く異なる次元の話として、お金のことがあります。教会を運営し、維持していくにはお金がかかります。牧師と牧師夫人やご家族の生活に必要なお金。教会の日曜礼拝の説教壇に飾るお花。教会堂の家賃や建設にかかったお金の返済。建物の修繕。クリスマスなどの行事のための費用。伝道のためのウェブサイトや印刷物の費用。新しい支部教会を建設するためのお金など。
これらのお金は、基本的には神様が備えてくれるものである訳ですが、現実面では教会のメンバーが支えていかなければなりません。そのため、十分の一献金(什一献金)を義務化している教会が少なくありません。この十分の一献金の義務化には議論があるところですが(必要なお金は神からいただけるから、教会員には献金を義務化する必要はないという信仰があります)、現実問題として、人間は忘れやすい存在であるため、毎月のお給料の十分の一として決め事にしないと、捧げる側もつい怠ってしまうということになりかねません。教会個々のやり方があって然るべきでしょう。ベストというものはないと思います。
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ひとつの教会の運営には、それが大きな教会であっても小さな教会であっても、こうした運営にかかる事柄全般を毎週毎週切り盛りしていくことと、お金に関する事柄を毎月毎月管理していくことの双方が不可欠です。
そしてその大部分が牧師の肩にかかる格好になっています。
理想的な教会運営は、これらの教会組織にかかる事柄の一切と、お金にまつわる事柄の一切が、牧師の責任から外れて、牧師は毎週のメッセージングにのみ集中すれば良い、あるいは、教会員の霊的な指導に集中すれば良いという状況です。しかし、現実にはそうでない教会がほとんどです。
このような牧師ひとりに色々な責務が集中してしまう構造は、二千年近い教会史の中で、ルターのプロテスタント以降に出現したものだと考えています(カトリックにおいては世界をカバーする組織体系が確立しており、1つひとつの教会はこの組織によって支えられていて、1人ひとりの司祭を支える仕組みがあるようです)。
これに対するひとつの解決案として、いわゆる「五役者」(ごえきしゃ、five offices)の考え方を初代教会時代のパウロ書簡から発掘して、現代の教会に展開する動きもあります。それはそれでうまく行っている側面もあります。一方でどのような取り組みにも欠点は伴いますから、うまくいかない部分もあるようです。使徒や預言者を生き神様のように崇拝してしまう傾向が常に伴います。また同種の問題はカトリック教会にもその他のプロテスタント教会にもあります。
五役者の神学が聖書的に正統なものであり、教会には必ず使徒と預言者が必要なものであるとして、この考え方が出てきた米国では、アメリカ合衆国始まって以来の国難である新型コロナウィルスの極めて大変な状況がある中で、事前にこれを預言し、適切な聖書的指針を示した預言者は一人もいません(少なくとも私の知る限りでは。いらっしゃるようでしたらご教示下さい)。その人が真の預言者であるならば、この国難について、天の父、ないしは、御子イエス、ないしは、聖霊が予め示し、米国のクリスチャンが切り抜けるべき聖書的指針を教えたはずです。以下の神の言葉があります。
まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。
(アモス3:7)
しかしそれがそうはならなかった、ということを、ずっと日本からみていて、それがなぜなのだろうと考え続けています。答えは、人間の私にはわかりません。天の父がご存知だと思います。
この議論はここまでとします。
追記。
米国でDesiring Godというインターネット宣教のミニストリーを主宰しているJohn Piperという牧師が5月に公開した”Coronavirus and Christ”という文書は、時宜にかなったメッセージだと思いました。国難に際して預言者としての役割が果たされていると受け止めました。非常に短期間でまとめられており、疫病の聖書的な解き明かしと、神の民として行うべき祈りについて書かれています。
述べたいことは、教会における、霊的な側面のカバーは、なぜか、きわめて難しいということです(本ブログで「霊的」であるとは、聖書の神のみことばに100%基づくという意味です)。使徒の働きやパウロ書簡から窺い知ることができる初代教会の頃には、ごく当たり前だったと思われる、聖霊に基づく、キリストについてのみことばに基づく霊的な指導は、なぜか、多くの現代の教会において行われていません。その背景には上で記した教会運営の大変さということもあります。
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そういう中で、主イエス・キリストの救いを求めて、ある教会に行って、大いに意気込んで、毎週礼拝に出席し、信仰告白をし、水のバプテスマを受けたけれど、なぜか救われた実感がない。クリスチャンになる前に抱えていた問題が、つまるところ、完全に解決された実感がない。同じような罪を犯しがちになる。という方も、5%程度はいらっしゃると思います。
あるいは、20年間、ひとつの教会に通っているけれども、クリスチャンにあって当たり前の喜びがない。自然な喜びが感じられない。苦労や重荷や大変さは日常的に実感するが、それらに対する、神様の救いを実感したことはほとんどない。そういう方もいらっしゃると思います。
私は、教会の礼拝には毎週出席すべきだという考えの持ち主で、このジーザスどこでも教会が始まる前は、計17年の間、3つの教会でお世話になり、仕事で身動きできない時以外は、ほぼ毎週出席していました。
しかし、5年間通わせていただいた、ある福音派の教会で、淋しい思いをしたことがあります。ジストニアという神経系の、治療方法が確立されていない病気にかかったのですが、それについて、その癒しについて、それから来る不安について、教会として適切にアドバイスをしてもらえるということがなかったのです。
今では、聖書的な癒しがどういうものであり、どういう風にすれば、神からの奇跡としての癒しがいただけるか、聖書の根拠聖句を挙げて、人に説明できますし、自分でもその癒しをいただくように神に願うことができます。
現実問題、私の、大変に困難だったジストニアは、今では癒されています。ハレルヤ!主イエス・キリストの御名を賛美します!御子イエスによって、癒しの道を切り開いて下さった天の父の愛に感謝します!
一番大変だった時期は、首の右側の筋肉がこわばったままで、首が右に傾いた状態が続き、まっすぐ前を見て歩けないため、常に右手を頭に当てて首の傾きを無理やり修正しながら、まっすぐ歩けるように、足並みを常に修正して歩く、という風でした。これは苦しいです。仕事で、人と対面して話す際にも、自分の目の前にいる方の顔を見て話すのに、右手で頭に手を当てて、正対しなければならない状態でした。これもまたものすごく苦しい状態でした。
神経内科の専門医を探し出して定期的に通うようになり、ジストニアには定番の薬を出してもらって飲むようになっても、根本的な治療ではないので(ジストニアの治療法は確立されていません。原因不明の病です)、症状が軽減したという実感がないのです。
通っていた教会で、残念なことがながら、聖書に基づく癒し、神による癒しに関する指針をいただけないまま、探しに探して、大阪のある単立の教会にたどり着きました。主任のM牧師が対応して下さり、土曜日にカウンセリングで1.5時間、お祈りで1.5時間使っていただきました。カウンセリングとは、このジストニアが現れる前提となった状況を牧師として把握するためのヒアリングです。この種の病には必ず、霊的な前史があり、それを正しく把握して、それに適合した祈りをすることと、当人に対して、聖書的な指針を示すことが不可欠です。場合によっては、悪霊の追い出しをすることが必要になる場合もあります(マルコ16:17に基づく)。
この時、対応して下さったM牧師には大変に感謝しております。
彼は、翌日の日曜礼拝とその後の食事の後で、彼の教会を去る私に、「霊的な先生を持ちなさい」と、別れのメッセージをおっしゃいました。
「霊的な先生」とはどのような先生なのか?どこに行けば「霊的な先生」がいらっしゃるのか?彼の教会は大阪でした。私は東京に住んでいます。東京では「霊的な先生」はどこの教会にいらっしゃるのか?そうした自問自答が始まったのが、2013年頃だったと思います。
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現在、教会に通うことができていないほとんどの方の問題は、この「霊的な先生にめぐり合うことができていない」ということなのではないかと考えています。
自分は問題を抱えている。それに対して聖書的なアドバイスが欲しい。神の助けが欲しい。そのように思って教会に行く。しかし、教会ではそのようなアドバイスがいただけない。
自分はおそらく悪霊の問題を抱えている。新約聖書にあるように、悪霊を追い出してもらいたい。しかし、伺った教会ではそのようなことに取り組んでいなかった。
自分は癒しが欲しい。多くの病院に通ったけれども、現代の医学では治療が無理だと言われた。しかし、神ならば癒して下さるのではないか?そのように考えて教会に行ったが、求めていた癒しはいただけなかった。
いずれも、教会に霊的な先生がいれば、少なくとも聖書的な指針が与えられる課題です。その場で悪霊を追い出してもらう、ないしは、その場で主イエスの名による癒しがいただけることはないとしても、聖書のみことばに基づく歩みの基本方針は示せるはずです。なぜなら、聖書に書いてあるからです。
理想的には、その信徒に用意があるならば、その場で悪霊を追い出す展開があるべきです。なぜなら、主イエスを信じる人は主イエスと同じ業を行うと、主イエスご自身がおっしゃっています。また、癒しを求めて教会にやってきた人に、主イエスの名による祈りを行い、病に命じるなどして、神の業による癒しが受けられるように、祈りにより信仰により、動くのが望ましいです。
しかし、このことは、残念ながらほとんどの牧師も教わっていないため、できない現実があります。初代教会が失われた紀元3世紀ごろまで遡らなければならない、弟子教育・教職者教育の欠陥です。このことは自覚した牧師が一人で、神から直接教えてもらいながら取り組むことによって初めて道が開けるという類の事柄です。すべてパウロが書いている御霊の賜物に属する事柄ですから、聖霊から直接いただけるものであり、それにはそのような聖霊と交わり、聖霊から賜物をいただくための取り組みが不可欠です。ほとんどの会派では残念ながらこのカリキュラムが備わっていません。初代教会の伝承は途切れてしまっています。
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現在の私の理解で言うと、霊的な先生とは、次のような先生です。当時はまったくわかりませんでした。
1. 主イエス・キリストが説かれた神の国の福音とパウロ書簡で記されている福音とを、旧約聖書のメシア預言を基として正確に理解している。また、福音を信じている。
2. 主イエスの名によって祈り求めることによって、天の父が何でも与えて下さるという、また、主イエス自身が与えて下さるというヨハネの福音書14〜17章にある主イエスのお言葉を信じている。「神の名」「イエスの名」が持つ聖書的な意味を旧約聖書と新約聖書の記述に基づいてよく理解している。「その名によって祈る」ことの聖書的な理解がある。
3. 「信じる者に働く神のすぐれた力」(エペソ1:19)についての理解があり、信仰があり、それを経験しており、いつでも主イエスの名によって証をし、感謝をし、賛美をしている。霊とまことの礼拝をいつも行なっている(ヨハネ4:23-24)。
4. 主イエス・キリストのみことばを大切にし、守っている(ヨハネ14:23)。
5. 天の父と御子イエスとの交わりをいつも持っている(第一ヨハネ1:3)。
6. 「互いに愛し合いなさい」という主イエスの命令を守っている。
7. 聖霊に助けられている。
このような霊的な先生が、自分が通うことができる範囲内にある教会で見つからない、という現実があることはよく理解しています。このことをどうすればいいのか。
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個々の教会は、冒頭で述べたようなたくさんのやるべきことがあり、その多くは牧師の肩ひとつにかかっている構造があり、霊的な指導までカバーすることは、大変に難しい現実があります。残念ながらそれが現実です。いい教会はたくさんあります。いずれもすばらしい教会です。どの教会にも恵みがあり、祝福があります。けれども、パウロが一人ひとりの信徒は主イエスの体を構成する「器官」であると説明しているように、1つひとつの教会もまた主イエスの体を構成する「器官」であり、得意なこととそうではないことがあります。できることと、できないことがあります。
主イエスは、互いに愛し合いなさいと教えています。また、互いに足を洗い合いなさいとも教えています。そのため、たとえ霊的な指導ができる牧師がいない教会であったとしても、教会に毎週日曜日に行って、兄弟姉妹と交わることには大きな意味があります。そうした毎週教会に通うことでわかってくる、主イエスの言葉の真理があります。
できれば、特定の教会に通い続けるべきです。そうして毎週日曜日の礼拝に参加し、兄弟姉妹と交わる中でわかってくる、言語化しにくい愛のあり方を、経験として学んでいくべきです。
しかし一方で、抜き差しならない問題を抱えていて、今日にでも明日にでも神の助けが欲しい。奇跡を望んでいる。主イエス・キリストならそれができる。神様になら必ず解決していただける。そういう信仰を持って、教会に行く人がいることも、よくわかります。しかし教会ではそれが与えらない。毎週期待を持って日曜日の礼拝に参加するけれども、渇望している癒しや解放はいただけない。毎週悶々として帰ってくる。そういう方が、おそらくは、少なくないだろうということは、よくわかります。私もそういう状況だったからです。
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神にとって不可能なことは一つもありません。
(ルカ1:37)
そういう方は、聖書の神のみことばによって、天の父により、主イエスにより、聖霊によって、直接的に洗われて、変えられていくのが、つまるところ、最善かつ最短の道であると、現在では考えています。この時、霊的な先生とは、主イエス・キリストであり、内なる聖霊です。
神のみことばが、自分の人格に働きかけ、霊的な自分を刷新し、かつ、自分の頭に生まれて以来培われてきた現代人的な不信仰を伴う思考のクセを洗い流すものであるということを、まず知る必要があると思います。神のみことばには、神の力が働くということを、まず知ることです。
主イエスを愛する人は、必ず、主イエスのみことばに立ち返ります(ヨハネ14:23)。主イエスのみことばを大切にする人が、主イエスにあって、神の力にあずかることができる人です。主イエスのみことばを大切にしない人には、神が介入したくとも介入できません。不信仰があると奇跡が起こらないというのは、新約聖書の福音書から学べる事実です。信仰があるから奇跡が起こるのです。信仰はキリストについてのみことばによります(ローマ10:17)。神のみことばを聞いて→信じる。アブラハムの昔から、このことは聖書的な真理です。
この神のみことばに一定期間、洗われ続けることによって、現代人固有の不信仰が付いて回る考え方のクセから解放が起こります。「古い思考の根」と言う牧師もいます。
現代のクリスチャンの多くは、祈りがかなえられない、祈りが聞かれた経験がないという悩みを抱えています。それもつまるところ、現代人固有の不信仰の問題に行き当たります。信仰があれば、祈りはかなえられる。このことは、主イエスが、山が動く信仰について教えているところで、明確に説明しています。信仰がないから、かなえられないという図式は、残念ながら、あります。
では、この信仰を獲得するにはどうすればいいのか。
神のみことばによって、自分を洗い続けるのです。
ヨシュア記1:8と、詩篇1:2で、非常にシンプルにこのことが教えられています。
この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。
(ヨシュア1:8)
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
(詩篇1:2)
メディアも活版印刷もなかった(つまり手元に置いておける書籍の聖書がなかった)、古代イスラエルの時代の神のみことばに接する接し方。すなわち、自分が朗読する神のみことばを聞き続ける、あるいは人が朗読する神のみことばを聞き続ける。そのことによって、ローマ10:17で解き明かされている「聞くことに伴う信仰」が芽生えます。「口ずさむ」と訳されているヘブライ語の原義は、「ぶつぶつ口ずさむ」というニュアンスです。高らかに朗読すると言うよりは、神のみことばを切れ目なく口から出し続ける感じです。
聖書に文字として記されている神のみことばは、信仰を求める人が口ずさむことによって、音として、霊として立ち上がる必要があるのです。
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
(ヨハネ6:63)
このことは現代の脳科学的にも認められているようで、リンク先の米国のキャロライン・リーフ博士のインタビュー動画で説明されています。この動画を素朴な思いを持って見て、ああそうかと納得した人と、この動画を見るチャンスを失して、心理的インセンティブを得ることなく忘れてしまった人とで、大きな違いが出ます。できるだけ今見て下さい。この動画を見るチャンスを逃して、21日間みことばを口ずさむことなく、以前からあった信仰の問題に沈んでしまった人を複数見ています。
最低21日はそれが必要だと言う理由が、この動画によって理解できます。20年間抱えてきた信仰の問題が、たった21日間、みことばを口ずさみ続けることで根本的に解決できるのだとしたら、短い取り組みではありませんか。
21日間というのは、脳科学的に言えば、脳細胞が全て入れ替わるのに必要な日数だということですが、同時に、主イエスを信じようとする人に対して起こる、サタンの目に見えない邪魔の日数であることが、ダニエル書10:13によってわかります。以前、この21日間のことを書いた時に、「聖書的ではありません」とコメントをいただいたことがありましたが、ダニエル書に書いてあることです。
サタン側の目論見としては、主イエスにあって真の信仰を持って、マルコ16:17-18にあるような、主イエスの名によって悪霊を追い出し、病を癒して歩く人が、出て欲しくないということがあると推察します。主イエスの名によって、信仰により、聖霊の力によって悪霊を追い出す人が多く出現すると、サタンの立場としては大いに困る。だからそれがそうならないように邪魔をする。そうした邪魔が21日間発生する。ダニエル書10:13はそのように解釈できます。要は、サタンは、クリスチャンにおいて真の信仰が立ち上がるのを邪魔する存在であり、その邪魔は一定期間続くということです。その一定期間を超えてしまうと、40日の断食の後で主イエスを誘惑したサタンが3つの質問をした後で立ち去ったように、立ち去ります。私が勧めるのは、21日間を超えて、40日間やり続けることです。私もこれでブレークスルーをいただきました。
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みことばを毎日口ずさむことによって古い思考の根が洗い流されてみると、そこから見えてくる、聖霊による、みことばによる、主イエス・キリストのお約束による信仰の世界は、きわめてクリアーなすばらしいものがあります。これぞ福音。これぞ主イエスの救い。これぞ暗やみの圧制から解放された天の父が愛する御子のご支配(コロサイ1:13)という感じです。これを日々実感できるようになります。
また、天の父との距離が縮まります。御子イエスとの距離が縮まります。第一ヨハネで記されている天の父と御子イエスとの交わりが、現実的なものとなります。聖書に書いてあることなら何でも、信じて、そうして取り組んでみることができます。「聖書に書いてあるから、こうやってみよう」、「神のみことばがお約束して下さっているから、これを求めてみよう」。そのようにして、天の父に求めると、応答があります。御子イエスに尋ねると、答えが返ってきます。聖霊に助けを求めると、聖霊が助けて下さいます。これが生ける神です。
そうしてこれが、サタンが恐れていた、主イエスにある生き生きとした信仰を持った「信じる人々」(believers)です。
信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、
蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。
(マルコ16:17-18)
この、聖書に素朴に書いてある信仰が獲得できると、その人は、第一ヨハネ2章に書いてある「キリストから受けたそそぎの油」がある状態になりますから、聖書の神のみことばをよすがとして、1人でどんどん進んでいけます。つまり、主イエス・キリストがその人の霊的な先生になります。それは聖霊であり、またみことばであり、またみことばは天の父から出ていますから、天の父です。
あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。
(第一ヨハネ2:27)
これは教会に通わなくてもよくなるという意味ではありません。主イエスの互いに愛し合いなさい、足を洗い合いなさいという命令は、依然として真理です。私たちは兄弟姉妹と交わる中で、主イエスの真理を実践できます。現実問題として、主イエス・キリストとみことばから教わった内容と、自分が足を運んでいる教会で教えられている内容には、食い違いがあるということが多々発生するでしょう。細かな具体例を挙げることは差し控えます。
このことはよく理解しておかなければなりません。地上にある教会は、地上に存在している1人ひとりの人間と同様に、どこかに人間らしさを残しています。つまり、神ではありません。神のように完全ではありません。完全であるのは、主イエス・キリストのみです。従って、自分が出席している教会の説教で、みことばにより、主イエスにより、聖霊により直接教えられた事柄と違うことが教えられているとしても、「裁いてはいけません」が主イエスの教えです。
また、高ぶりは、サタンが天から落とされることになった根本原因です。高ぶりは、サタンに近づけます。せっかく、主イエスから何かすばらしいことを教えられたとしても、高ぶりがあると、それが奪われます。また、知らないうちにサタンに近づいているこということになりかねません。主イエスにあり、聖霊によって歩む人には、必ず謙遜があります。へりくだりがあります。へりくだりがあれば、主イエスの名による祈りは聞かれます。へりくだりがない祈りには、サタンや悪霊が手出しをする余地があります。
口ずさむみことばとしては、天の父と御子イエスと聖霊の基本、主イエスの名についての基本、祈りの基本が学べ、それらについての幼子のような信仰が培われるという意味で、ヨハネの福音書14章〜17章がお勧めです。この3章は主イエスの言葉のみによって成り立っている章です。生けるみことばであり、霊です。
これによって信仰が育まれ、主イエスの名による祈りに天の父が何度も答えて下さる経験を重ねていくと、教会とは何か、兄弟姉妹と交わるとはどういうことかが自ずとわかってきます。そうなると、自分が求めていた教会がある・ないという問題は、自然と解消されているはずです。
パウロが様々な箇所で、主イエスにあって「一つ」ということを述べています。天の父が望んでおられることも、主イエスにあって「一つ」になることだと受け止めています。それがアブラハムの子孫であり、神の民であり、主イエスを信じる神の子どもたちです。