日曜投稿:生ける神が誰にも働いていること。神の想い | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Roger Davies

 

私は現在の状況を、聖書で「生ける神」(the living God)と書かれている神の「『生ける神』であるというご性格」を、世界中の人々が好むと好まざるとに関わらず、経験させられているのだと解釈しています。

「主は生きておられる」という表現は、イスラエル人が大変に好んでいたようで、旧約聖書の色々なところに出てきます。前後の文脈から、人々が神である主について話をする時に、二言目には「主は生きておられる」という決まり文句を口にしていたと思われます。

ルツ記では、ルツを買い戻すことになるボアズがルツに対して言葉をかける最初の場面で、ボアズがごく自然に「主は生きておられる」というフレーズを挿入しています。

すると、ボアズは言った。「娘さん。主があなたを祝福されるように。あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています。あなたは貧しい者でも、富む者でも、若い男たちのあとを追わなかったからです。
さあ、娘さん。恐れてはいけません。あなたの望むことはみな、してあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っているからです。
ところで、確かに私は買い戻しの権利のある親類です。しかし、私よりももっと近い買い戻しの権利のある親類がおります。
今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、けっこうです。その人に親類の役目を果たさせなさい。しかし、もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられる。とにかく、朝までおやすみなさい。」

(ルツ記3:10-3:13)

以下はイスラエル人に敵対するペリシテ陣営の領主アキシュが隠れ場を求めて来たダビデに対して言った言葉です。イスラエルの民からすれば異邦人ですが、ダビデに敬意を表するためか「主は生きておられる」という、当時のおそらくは決まり文句を口にしています。

そこでアキシュはダビデを呼んで言った。「主は生きておられる。あなたは正しい人だ。私は、あなたに陣営で、私と行動を共にしてもらいたかった。あなたが私のところに来てから今日まで、私はあなたに何の悪いところも見つけなかったのだから。しかし、あの領主たちは、あなたを良いと思っていない。
(第一サムエル29:6)

この「主は生きておられる」は、「生きておられる神が、これから御業(みわざ)をなさるから、そのことを宣言する!」という文脈でもよく用いられたようで、以下の預言者エリヤの言葉は、そうした用例です。

ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」
(列王記第一17:1)

このように「主は生きておられる」というフレーズを普通の会話の中でも使っていたし、何か神についての非常に重要なことを宣言する時にも使われていたということが、旧約聖書の中の用例から窺われます。
「主は生きておられる」ないし「神は生きておられる」という表現は、旧約聖書の中では37箇所に出てきます。



イスラエルの民は、まずエジプトからの脱出において、神の生きているご性格を経験することになりました。ものすごい経験をしながら、彼らは40年かけてカナンの地に入りました。
アブラハム、イサク、ヤコブに始まる家長たちは、神を直接的に経験する機会が何度もありましたが、その後、数十万人に増え広がったイスラエル人の多くは神を経験したことがありません。エジプトを襲った10の災いから始まって、海が割れたところを駆け抜けた経験や、火の柱と雲の柱によって荒野を導かれた経験は、多くのイスラエルの人々に畏怖の念を起こさせたことでしょう。それと同時に、神の命令を守らない人たちには神の怒りが現れる場面もありました(民数記11章)。

こうした「生ける神」であられる主。旧約の表記ではYHWH、英語訳聖書ではヤーウェ、ないしエホバという音が当てられている神は、日本語訳聖書では「主」と訳されています。この、神の名に関する記載方法の変遷や訳された方の変遷については、資料を吟味しながらこちらの投稿で以前に整理しました
「神の名」はモーセの十戒以降、みだりに人が口にしてはいけない崇高なお名前でしたが(それゆえに「YHWH」という、人が発音できない書記方法で記載されていました)、御子であられる神イエスがこの世に登場されて、「御子イエス」が「天の父」の存在をはっきりと示され、人は「救い主であられるイエス」の名によって祈ればよいということになりました。つまり、神の名は「イエス」であると高く掲げられたのです。並行して「聖霊」として人の内に宿る神のご性格も示されました。

この「生ける神」であられる神のご性格は、現代社会で生きていると残念ながら実感しにくいところがあります。それにはいくつかの理由がありますが、突き詰めて言えば、現代人を広く覆っている不信仰に行き着きます。そしてその不信仰は、聖書的な解釈によれば、創世記でアダムとエバを堕落させたサタンから来ています。そのことが非常に分かりづらい構造がイエスの出現から数えれば2000年、アダムから数えればその数倍の年数この地に蓄積されてきています。

けれども実は、1人ひとりの人間には、神の御業が働いています。そのことが最近よくわかるようになりました。神を認めていても認めていなくても、イエスを信じていても信じていなくても、実は、天地万物を創造された神、新約で言う「天の父」の御業は、リアルタイムで、常時絶え間なく働いているのです。そのことが今ではよくわかります。
人が生きていられるのも、食べるものがあることも、家族がいることも、仕事があることも、あるいは一人で生きていることも、一人で生きていながら実は色々の人や物事に支えられていることも、目に見えない神の御業として、リアルタイムで神が諸々のことをなさっているからなのです。そうしてその神の御業には、御子イエスを通じてアクセスすることができるようになります。

以下の一連の聖句は、少し前にも引用しましたが、「万物」が御子であられるイエスのみことばによって保持されているということを明確に告げています。万物ですから、万物からはみ出るものはなく、例外の物はないのです。

御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。
なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、
その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

(コロサイ1:15-20)

私はコロサイ1章のこの部分を、「何となく、すべての物に御子イエスのみことばが働いているんだろうな」、「けれどもよくわからない」、「万物に御子イエスが働かれているということを、正面切って言う人がほとんどいないのはなぜなんだろう?」と考え続けてきました。
この聖句がよくわからないのは、つまりは、現代人固有の不信仰があったからだ、ということに気づいたのはごく最近のことです。何度か記しているように、現代人は生まれてからこのかた数十万、数百万のこの世の言葉を浴びせられて育ってきていますから、神の言葉を聞き分けることができにくいです。従って、聖書の神の言葉が本来的に告げているものを読み取れない、聞き取れないということになります。理性的、理知的、論理的に聖書の言葉を吟味して言っても、そこには神性や霊性がなく、神の言葉が本来持っている「神の言葉に神のご性格がすでに含まれていること」、「神の言葉に、そもそもが初めの言葉であられる主イエスの存在が含まれていること」の理解には及びません。別な言い方をすれば、幼子のような素朴な信仰により神の言葉を受け取ることができません。これは悲しむべきことです。

けれどもこれも何度か記しているように、聖書の神の言葉の特定の箇所を最低で21日間(ダニエル10:13を参照)、できれば40日間口ずさみ続けて、自分の脳に蓄積している現代人的な不信仰を洗い流していくと、自ずと神の似姿として造られた人間本来の「神を受け止める能力」が働き始め、幼子のような信仰が得られます。その上で、コロサイ1章を読むと、「ああなるほど、万物を御子イエスのみことばが保っておられるのだな」という素朴な理解が得られます。何ら難しい理解ではなく、そこに書いてあるそのままを受け止めて信じるということなのです。聖書の言葉には「読んでそのまま信じる」ということをすると、神の言葉本来の物事が付き従うようになり、その上で、祈ったり、宣言したり、また悪霊の追い出しや悪霊を縛ることに応用したりすると、そこに神の力が働く、ということを多々経験することになります。マルコ16章の末尾で、みことばに伴うしるし、について書いてありますが、それを経験するようになります。

何れにしても、神は、すべての人間に働いています。また、すべての事物にも働いています。それは以下の聖句にも窺うことができます。

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

(マタイ5:43-45)

御子イエスは天の父のお働きをよくご存知でしたから、このようにわかりやすい言葉で語っておられますが、この聖句は、天体の動きも天候も、天の父がご支配なさっているということを告げています。つまり、光と闇を創造され、天と地を創造され、植物や動物とともに人間を創造された神であられる天の父は(そこには常に言葉であられる神イエスが付き従っておられましたが)、現在でも、すべてを司っておられるのです。
しかし、人間については、自由意志を認めておられるため(アダムとエバに選択肢を残したように)、人間だけは、神に従うことも従わないこともできます。また、根元がサタンから来る諸々のこの世のメッセージに従うことも、それを拒否することもできます。

人間が、例えば、第二次世界大戦が終了した1945年以降、神に従ってか、神に従わずしてか、営々と形作ってきたこの高度に発達した経済や産業。あるいは、もっと遡れば、18世紀から19世紀にかけて起こった産業革命。それ以降の資本主義経済の発達。そうした歴史の営みの中にも、神の力は、実は脈々と働き続けており、それに人間が気づいたか気づかなかったか、ということです。

現在までの結論から言えば、神の力を認める人々は、圧倒的に少数だった。生ける神の生きた御業を認識する人々は、ごくほんの一握りだった。
旧約に記された色々な展開から推測すると、そういう状況において、神は自らが神であられることを現されることが多々あります。それは先週の投稿に書いた通りです。



神が人間をお造りになった理由は、人間と親しく交わり、人間が繁栄するのをご覧になり、人間が食べたり飲んだり楽しんだりする中で、自然と感謝の念を持ち、神を賛美し、神に感謝する。一言で言えば、まことの礼拝を受ける。そうしたことのために、神は人間をお造りになったのです。そこには愛があります。

けれども残念なことに、人間の方が神を認めない。神がおられることをほとんど意識せずに生きている人がほとんど。日本だけでなく、北米でも欧州でもアジアでもアフリカでも中南米でも中東でも東欧でもです。

そういう中で神はどういう想いをお持ちか?
なかでも、人々の救いのために、尊い御子イエスを地上にお遣わしになったのに、御子イエスの救いに集まってくるのはほんの一握りの人たち。そういう状況で何を想っておられるか?

神は、人間に対して、預言者を通じて、行うことを事前に告知されるということが、アモス書に書かれています。

町で角笛が鳴ったら、民は驚かないだろうか。町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか。
まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。

(アモス書3:6-7)

このみことばは、新約聖書に記されている主イエスご自身による預言や、ヨハネの黙示録に記されている預言によって成就しています。
つまり、神が現在リアルタイムでお想いなっておられる想いは、それらを参照することで人間が知ることができます。



私は、現在の新型コロナウィルスの状況が最もひどいのが米国であることを注視しています。
なぜ米国なのか?

米国では感染者数、死亡者数ともに世界で最も多く、その勢いがまだ衰えていません。また、失業者数が膨大な数に上っており、1920年代の大恐慌を超える可能性があります。

ブルームバーグやフィナンシャル・タイムズなどの経済記事を少し見るようにしていますが、米国において起こっている現象のうち、特に経済関連に目を留めるなら、およそ以前には想像もできなかったような、経済全体の崩壊と言うしかない事態が進展しています。まだその全体像は現れていませんが、これから連鎖的に様々な業界で業績悪化、業務停止、資金繰りの悪化から倒産や解雇が出る様相です。これが3ヶ月程度の短期間に集中的に起こっています。米国ではGDPの7割を個人消費が占めているため、現在の失業率が20%、これがさらに増える中では、米国経済の大きな部分が崩れてしまいます。現在の経済は複雑にネットワーク化されていますから、失業率増大に伴う個人消費の低迷は短期、中期、長期の各タイムスケールにおいて様々な影響を及ぼしそうです。

これで思い起こすのは、まさに黙示録18章にある記述です。ここでは大バビロンが倒れたと言うことが述べられています。そうして、商人たちが商品を買う人たちがいなくなったので嘆く様や、船に携わる人たちが呆然とする様が記されています(実際、海運業も大きな影響を受けています)。まさにそのことが、特には米国で集中的に起こっています。
これはなぜなのか?なぜ米国なのか?ということを素朴に思います。
(なお、細くすれば、この文脈では、大バビロン=米国という訳ではなく、産業革命以降高度に発達した現在の経済や産業全体が大バビロンということになります。大バビロンは偶像崇拝の象徴であり、神ではないものを多くの人が実質的に崇拝している、つまり、神を忘れて現在の高度な経済の繁栄を追い求めている。それが大バビロンとして象徴的に書かれている図式です。それが集中的にあるのが米国ということになります。英国にも似た図式があります。)

私たちの目にはよくわかりませんが、特に、クリスチャンの国として建国され、教会の数も多く、クリスチャン人口も多い米国のことですから、意外な気もしますが、神の目からすれば、神はうわべだけでなく心を見られる存在ですから、何かが見えていらっしゃるのかも知れません。



一方で今起こっていることには、旧約聖書で言う「過越」(すぎこし)も重ね合わされていると見ています。
出エジプト記に記されている過越の故事では、かもいに小羊の血を塗っている家は、歴史始まって以来の災いが過ぎ越しました。
この小羊の血は、その後現れた救世主でありまた小羊でもあったイエスの血の預言的な事象であると解釈する聖書解釈があります。私もその解釈に立ちます。

イエスの血についての信仰がある方のところは、この新型コロナウィルスがもたらす諸々の災いが過ぎ越していると見ています。
病気になることはもとより、経済的な事柄についても、まるでカプセルに入っているかのように何の影響も与えずに、災いが過ぎ越しているはずです。そのことは詩篇91篇にも象徴的に記されています。私の周囲のクリスチャンとのやり取りの中からも、そのことは窺われます。

そのことにも神のメッセージがあります。それについては先週記した通りです。

神が目指しておられる方向は、聖書に記されている通りに、様々な世の終わりの出来事があった後に、主イエス・キリストを真に信じている人たちが集められ、主イエスの来臨を賛美して迎えるということです。聖書に記されているままです。何ら難しく解釈する必要はありません。上では黙示録18章が成就しているということを記しましたが、おそらく短い年限のうちに黙示録や他の預言の部分も成就して行くことでしょう。神の言葉は変わることがありません。神は必ずご自身の思いを遂げられます。主イエスの下にある人はその中で尽きることのない恵みや祝福を受けることができます。なぜなら御子イエスが十字架でご自身の命を捧げられたからです。