キリスト教界では、教会暦があり、クリスマスやイースター(復活祭)の日にちが毎年決まっています。正教会や東方教会ではない教会群…と言うと、端的にはカトリックとプロテスタントですが、これらの教会が採用している教会暦はカトリックのものが原型となっています。プロテスタントのほぼすべての教会でもカトリックの教会暦にならって、クリスマスはもとより、イースターをお祝いします。
一方で、色々な聖書解釈を根拠として、教会暦に従わない会派や教会(単立教会)もあります。私が2000年から10年程度通った教会はそうした教会暦には従わない教会でした。1980年ごろから米国で「信仰のみことば運動」(Word of Faith)が始まりました。今でこそほとんどの教会で「みことば」を強調しますが、それはこの運動が日本にも入ってきて浸透したからだと解釈しています。それまでは典型的な福音派の教会では「信仰」「忍耐」「従順」のうち特に「信仰」を強調していたと思います。米国から始まったペンテコステ運動の影響を受けた会派や教会(日本では聖霊派と総称)では「聖霊」を強調します。
米国で始まった「信仰のみことば運動」の中心的存在はケネス・ヘーゲン(Kenneth E. Hagin)という人で、現代的なプロテスタント教会のひとつの柱を作ったと捉えています。日本に限らず「みことば」を強調する人たちは、おおむね、この人の影響下にあります。私が最初に10年間通った教会は、ケネス・ヘーゲンが設立した牧師養成学校で学んだ先生方でした(ご夫妻)。このブログで「みことば」について何度も記されるのは、つまるところ、そうした影響があるからだと思います。
一方で、この教会では教会暦を採用していなかったので、10年間教会に通っていたものの、イースターの意味を正確には知りませんでした。クリスマスの時には相応の催し物が持たれ、そこで行われる説教では常に、「イエス様が生まれは本当の日は、12月下旬の寒い時期ではない」ということが説明されていました(この認識は現在のモダンな教会の人たちには共有されていると思います)。
しかし、教会暦を採用しているかどうかを問わず、イエス様が十字架に付けられたのはユダヤ教の過越の祭りの時期であり、これは動かしようがない事実です。
「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」
(マタイ26:2)
「過越の祭り」は教会暦では祝われない祭りであり、ユダヤ教徒が守る祭りです。
(従ってほとんどのプロテスタント教会では過越の祭りに関与しません。)
(しかし、キリスト教界には色々な聖書解釈の会派や教会があり、一部の教会では過越の祭りをユダヤ的な伝統に敬意を表して祝います。私は2018年半ばまで過越の祭りに関心を持ち、ユダヤ的伝統に敬意を評して過越の祭りにちなんだ行動を行う、比較的近年に出現した会派の教会に数年所属していたので、過越の祭りのことも少しはわかります。)
(なお、聖書における過越の祭りに関する記述と、ユダヤ人の間で今も祝われている過越の祭りの関係を整理している資料にこちらがあります。)
しかし、イエス様が十字架に付けられたのが過越の祭りが始まる直前であったことから、イエス様の受難と復活の年が確定できれば、イエス様が十字架に付けられた日と復活なさった日とが、現代の我々が使っている西洋暦で特定できます。諸説あるようですが、聖書の複数箇所の記述とユダヤ暦、西暦を照合して述べている資料では、西暦30年の4月7日金曜日か、西暦33年の4月3日金曜日を2つの有力な候補として挙げており(その2つが当時のユダヤ暦の日どりと聖書の記述に合致するとのこと)、さらなる聖書の根拠から西暦33年4月3日にほぼ間違いないと結論づけています(とは言え他の解釈の余地もありだとしています)。
イエス様が生誕なさった日については残念ながら西暦で特定することはできませんが、イエス様が十字架に付けられた日はそのようにユダヤ暦の過越の祭りを根拠として推定することができ、従って、イエス様が復活なさった日(十字架に付けられてから三日目)も推定することができるということになります。
ここで述べたいのは、イエス様が復活なさったことを祝うイースター(復活祭)の日は、ユダヤ教の過越の祭りの中の金曜日から三日目、すなわち、今年の過越の祭りは4月9日から16日ですから、4月10日の金曜日がイエス様が十字架に付けられた日、4月12日日曜日がイエス様が復活なさった日として記念するのがふさわしいということが言えます。
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イエス様ご自身のお言葉の中にも過越の祭りに関する言及は何度もありますから、過越の祭りが持つ意味は重要です。
マタイ26:2、26:18、マルコ14:14、ルカ22:8、22:11、22:15-16
一言で言うと、過越の祭りの過越(Passover)とは、神が下す災難から神の民は過ぎ越せるという意味です。出エジプト記12章に書かれています。神の言葉に従って、その通りにしている家=神の民には災難が及ばずに過ぎ越せる。そうでない場合には過ぎ越せずに災難が及ぶ。非常に厳しい概念ではありますが、それが過越です。
(このことをよく理解するには、旧約の過越と新約の十字架とを結び付ける重要なポイントである「小羊の血」について、聖書のみを根拠として説明しているデリック・プリンスのこの動画で何度か学ぶ必要があるでしょう。「イエスの血」に関して比較的よく教えているのはペンテコステ系の教会であり、それ以外の会派では残念ながら、まずしっかりと教えられることはないようです。そのためこうした諸会派とは独立した、聖書のみを根拠とする立場で、聖書のみから教えをひもとくデリック・プリンスのような教えが必要になります。黙示録に信徒たちは「小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼(サタン)に打ち勝った。」(黙示録12:11)と書かれているので、「小羊の血」についての理解はきわめて重要だと思います。)
そうして、イエス様のお言葉によれば、後の時代に「過越が神の国において成就する」ことが起こるということです。
あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。
(ルカ22:16)
「過越が神の国において成就する」とは、イエス様が世の終わりないし終わりの日について言及しているマタイ24章、マルコ13章、ルカ21章を元にすれば、おそらくはこの世が終わろうという瀬戸際に、神の民=主イエス・キリストの信徒が世の終わりの患難を過ぎ越して、天の御使いによって集められることだと解釈できます。聖書を読み込んでみて下さい。
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イスラエル国のユダヤ人や、世界中に散らばって生活しているユダヤ人の間で、今年の過越の祭り(2020年4月9日〜16日)に入ろうとしている直前に、大変に興味深いことが起こりました。
出エジプト記12章に記されてように、エジプトに隷属していたユダヤ人は、神である主の命令に従って、後に過越として祝われることになるユダヤ暦第一月の15日の夜、家のかもいと門柱にいけにえにした小羊の血を塗って、家の中に閉じこもりました。ユダヤ暦は月の満ち欠けに基づいた陰暦ですから、ユダヤ暦第一月の15日の夜はいつも満月になるそうです。今年はいわゆるスーパームーンでした。
今年の過越の祭りに入ろうとしている2020年4月7日から8日にかけて、イスラエル国のネタニヤフ首相が同国の新型コロナウィルス感染拡大を防ぐために、同国の全住民に対して外出禁止令を出しました。同国のイスラエル人(多数がユダヤ教徒)は過越の祭りが始まる夜から、自宅の中にこもって過ごすことを命じられたのです。
歴史的に見ると、過越の祭りが始まる日、ユダヤ暦第一の月の15日の夜に、出エジプトを前にしたイスラエル人がかもいと門柱に小羊の血を塗って家の中に閉じこもって以来、三千数百年の時を隔てて初めて、イスラエル人が再び、その夜に家の中に閉じ込もらざるを得なくなったのだそうです。
Breaking Israel News: Passover Eve: All of Israel to Fall Under Full Curfew for First time Since 10 Plagues, April 6, 2020
つまり、歴史的に、出エジプトの前に起こった過越が、現代において再現されたと言うことになります。
このことを解釈する際に、
1. 神の業(わざ)が現れているひとつのしるしだ
と捉える立場と、
2. 歴史的に偶然の出来事が起こっている。これはしるしでも何でもない
と捉える立場があると思います。
私は1.の立場ですが、ただし、あわてふためくような対応をしてはならないと思っています。冷静に、聖書には何と書いてあるか、福音書のイエス様の世の終わりに関する預言ではどう書いてあったか?そこに立ち返って、よく吟味する姿勢が必要だと思います。
とは言うものの、Facebookのグループの中では、イエス様の再臨が数日後に迫っているのではないか?と、かなりあわててしまいました。
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そうして金曜日、これを書いているのは2020年4月11日土曜日ですから、昨日は、主イエスが十字架に付けられた日。米国ではGood Fridayという呼び方をするそうですが、その背景は知りません。教会暦では「受苦日」と呼ぶそうです。受苦日を含む1週間は受難週です。
主イエス・キリストが十字架に付けられたことは、聖書から教えを汲み取る際に、もっとも大きな足場、基盤中の基盤だと言えます。また、それに続く復活もまた大きな基盤です。
イエスの十字架が世界の半分を占め、イエスの復活が世界の残り半分を占める。それぐらいの意味があると言えます。
イエスの十字架の意味については、学校の教科書で教えるようにテキストと人の言葉によって教えられるものではなく、各自が、聖書のみことばを霊として取り入れ、何度も何度も繰り返し、イエスの十字架について考え、祈ることで、だんだんと理解できてきます。また、日常的に困難にぶつかった時に、イエスの十字架にまでさかのぼって、自分の信仰やみことばを思い起こすことによって、「福音」の意味がだんだんと明らかになる、というような理解の仕方をせざるを得ないと思います。説明しがたい内容を含んでいます。パウロ書簡も読み込む必要があります。
なぜ、神の子が十字架に付けられなければならなかったのか?
なぜ、神の子であるイエスは天の父のみこころに従って、十字架に付けられることをよしとされたのか?
なぜ、神の子が十字架に付けられたことによって、イエスを神の子だと信じる者は救いに入れるのか?
こうしたたくさんの「なぜ?」がイエスの十字架にはくっついています。「なぜ?」だらけだというのがイエスの十字架です。
そうしたことが起こったのが、西暦30年の4月7日金曜日か西暦33年の4月3日金曜日だろうと推定されています。
いま、主イエスは、墓の中で死を経験なさっているところです。