日曜投稿:悪霊の追い出し、初代教会の信仰 | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

 

聖書に書かれている特定のみことばを握って(ピリピ2:16)、心の底から信じて、それを基にして祈る時、そこに神の力が働いて、祈ったことが実現します。
自分の中の不信仰をなくすことができると、このことは日常的に経験できるようになります。イエス・キリストがヨハネの福音書の中で(14章〜16章)何度も述べておられることです。

私の場合、自分の中に隠れていた不信仰を洗い流すのに大きな効果を上げたのは、特定のみことば20程度を、毎日何度も何度も口ずさむということを40日以上続けたことでした。そのことは、今年の5月から8月にかけての複数の投稿で記しました。エペソ5:26に「みことばにより、水の洗いをもって」とありますが、みことばによって、自分の深いところの不信仰が洗われるのです。

不信仰がなくなれば、一つひとつのみことばに関するまっすぐな信仰を持てるようになりますから、信じて祈ったものは、あるいは、信じて口から出した言葉は、イエス様がおっしゃっているように、かなえられるのです。自分がどうのこうの、というのではなく、そこに神の力が働くので、かなえられるのです。その際の基盤は、聖書に書かれている約束です。神とアブラハムの契約であり、主イエスが十字架とよみがえりによって確立した新しい契約です。
ハレルヤ!



使徒の働きやマルコの福音書の最後の部分を注意深く読むと、初代教会では、みことばにしるしが伴っていたことがわかります。

この時のみことばとは、1)イエス・キリストに関する言葉であり、あるいは、2)イエス・キリストが説いた言葉であり、さらには、3)福音として宣べ伝えている時の言葉です。ここに神の力が働いていました。

そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。
(マルコ16:20)

これはマルコの福音書の最後の部分です。ここに書かれていることは、分解すると、次のようになります。

1. 弟子たちは福音のみことばを宣べ伝えていた。
(宣べ伝えているのは、神の言葉であった。神が直接的に働くみことばであった)

2. そこに主イエス・キリストが働かれた。
(主イエス・キリストは、みことばとしての側面がある。みことばを宣べ伝える時に、主イエスが働かれる)

3. 主イエスは、生き生きと働いて、ご自身であられるみことばを確証される。
(みことばが、単なる言葉ではなく、そこに主イエスが働く、神の業が現れる場となる)

4. 弟子たちが宣べ伝える際のみことばに、主イエスが働かれてしるしとなって現れ、誰もが目の当たりにした。
(しるしとは、人がはっきりと認めることができる現象。主イエスがそのような形で、自らを現された)

初代教会では、このようなことが、ごく普通に起きていたようです。先立つマルコの福音書の16:17には、「信じる人々には次のようなしるしが伴います」と書いています。ここのくだりは、現在の教会では残念ながら、まっすぐに教えられることがありませんが、主イエスの教えであることは確かです。また、マルコの福音書の最後に掲げられた教えであり、重要であると考えるべきです。

使徒の働きでは、キリスト教会史上最初の殉教者であったステパノの働きにその例を見ることができます。



ステパノは、十二人の使徒たちが祈りとみことばの奉仕に専念する必要があったことから、信徒の食事の世話をするために特別に選ばれた七人の「信仰と聖霊に満ちた」人たちの一人です。

この頃、初代教会の様子は、「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った」とあります。

 

こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。
(使徒の働き6:7)

「神のことばは、ますます広まって行き」とありますから、この時、宣べ伝えられていた、この文章の主語である「神のことば」には大きな力があったようです。つまり、神のことばに神の力が働くということだと思います。
(この頃の初代教会は、何らかの原因によって歴史のどこかで断絶してしまい、世界中のほとんどの教会では、神のことばに神の力が働くということが伝承されずに現代に至っているようです。現在の教会では残念ながら、こうした神の業を見ることがほとんどありません。ただし一部の教会では取り組まれています。)

そうして、ステパノにも、マルコ16:20にあるみことばに伴うしるしが見られました。

さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた。
ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。
しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。

(使徒の働き6:8-10)

ステパノに、みことばに伴うしるしが働いていたというのは、繰り返しになりますが、以下の1〜4が見られたということです。

1. 弟子たちは福音のみことばを宣べ伝えていた。
2. そこに主イエス・キリストが働かれた。
3. 主イエスは、生き生きと働いて、ご自身であられるみことばを確証される。
4. 弟子たちが宣べ伝える際のみことばに、主イエスが働かれてしるしとなって現れ、誰もが目の当たりにした。


一言で言えば、福音の宣教のみことばに、主イエス・キリストが働かれるということです。

ペテロが、美しの門のところにいた、生まれつきの足なえを、言葉によって一瞬によって癒したのも、まったく同じことです。

ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。
人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。

(使徒の働き3:1-9)

ここにも、上記の1〜4に働く主イエスの力が働いて、しるしとしての癒しが一瞬にして起こったのです。

このように、主イエスを信じる者が、信じる者として口から出す言葉には、神の力が働きます。
しかしながら、歴史のどこかで、初代教会に働いていた「みことばに伴うしるし」は伝承されなくなってしまいました。

この事柄は、経験に基づいて理解する側面が大きいため、誰かが手本を見せてくれないと、信徒は理解できません。教会内に誰も手本を見せる人がいない状況では、「みことばに伴うしるし」は理解しにくいものですし、実践しにくいものです。そのようにして千数百年が過ぎています。

同じことは、やはりマルコ16章で記されている「信じる者に伴うしるし」の一つである、悪霊の追い出しについても言えます。

信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、
蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」

(マルコ16:17-18)

悪霊を追い出すということも、初代教会では間違いなく取り組まれていましたが(使徒19章のパウロの例)、現代の教会でこれに取り組んでいるところはほとんどありません。



先日、カナダのPromised Land Ministriesという教会のジョゼフ・ジャシンスキ牧師が来日し、前回初来日した2017年にアテンドさせていただいた関係で、10月23日水曜日の午後から夜にかけてご一緒させていただきました。
なお、ジャシンスキ牧師は、悪霊の追い出しでよく知られているジョン・ラミレス師に悪霊の追い出しの手ほどきをしたシャノン・デイビス師の先生に当たる方です。

毎週水曜日夜7時から新宿御苑前駅そばの教会で開かれているオアシス祈祷会(主宰・佐々木満男弁護士、司式・菅野直基牧師)の場をお借りして、30分ほど「なぜ、悪霊の追い出しを行うのか?」(Why Deliverance?)というテーマでお話いただき、10分ほど質疑応答を行いました。私は力不足ながら逐次通訳を担当しました。以下、その内容を箇条書きで記します。

◯自己紹介
・ポーランド出身。カトリックの家庭に育つ。成人してからプロテスタントの教会に通うようになり、洗礼を受ける。
・30年前に、夢うつつで以下のビジョンを見させられて、悪霊の追い出しについての召命を受ける。
・ビジョン:教会に聖書を抱えた多くの信徒が入っていく。しかし、信徒の頭からは二本の角が生えており、顔には白い紙がかぶさっていて表情が見えない。日曜礼拝の説教と賛美が終わり、信徒が教会から出てくる。自分はその中には入らず外で見ている。説教と賛美を終えたにも関わらず、信徒の頭には二本の角が生えており、顔には白い紙がかかっていて表情が見えない。
・このビジョンが象徴しているのは、多くの信徒が悪霊に悩まされており、日曜礼拝に通うものの、その問題からは解放されていないということ。
・自分も長らく、礼拝の際に、自分の頭の中で、非聖書的な事柄を考えてしまうという問題に長く悩んでいた。牧師に相談したものの、解決してもらえなかったという過去がある。

◯現在の活動
・世界の教会が悪霊の追い出しに取り組んでいない現況にあって、自分に与えられた役割は、キリストの体である教会において、イエス様がなさったと同じ悪霊の追い出しを行い、教えて歩くこと。
・アフリカやヨーロッパなど33カ国を回って、牧師を対象にした悪霊の追い出しに関するスクールを開催して歩いている。これまでに悪霊の追い出しを行なった人は数千人。
・悪霊の追い出しスクールで使っているテキストの第一分冊の日本語翻訳ができあがったところ。
・Promised Land Ministriesでは、世界中の人とSkype電話でコミュニケーションしながら、悪霊の追い出しを希望する人に対応している。

◯なぜ、悪霊の追い出しが必要か?
・教会に通っている少なからぬクリスチャンが、牧師の説教を聴いても、賛美を行なっても、問題から解放されないという事実がある。
・多くの場合は、霊的な問題であり、悪霊が関わっている。悪霊は、福音書に記されている、イエス様が行なったやり方によって、追い出すことによって出て行く。それにまつわる問題も解決する。(今泉注、エペソ5:26のみことばと水による洗いなど、聖書に基づく他の方法もある)
・主イエス・キリストの名によって悪霊を追い出すことは、マルコ16:17に書いてある「信じる者に伴うしるし」の第一番目に来るもの。それだけ重要である。
・ほとんどの教会では、悪霊の追い出しに取り組んでいない。そのため、召しをいただいている者として、それに取り組み、School of Deliverance(SOD)という6段階(6分冊)のテキストを作成して、1日〜5日の牧師を対象にしたスクールを世界各国で実施して歩いている(招聘を受けその国を訪問)。

◯悪霊の現れ方と追い出し
・イエスが宣教を開始して間もなく、カペナウムの会堂で教えていた時に、その場にいた一人の人から悪霊(汚れた霊)が出てきた(マルコ1:23)。この例にあるように、悪霊は教会の中(教会に集っている人の中)にいることがある。そうして、manifestする(何らかの形で現れる)。
・悪霊は、イエス・キリストの存在があるところでmanifestする。

・悪霊の問題を抱えて、相談に来た方には3つの質問をする。どんな問題を抱えているか、いつからそれが始まったか、その時に何があったか?この3つを聞くだけで、どんな悪霊がいるか、どのような追い出しの祈りをすればよいかを、聖霊が教えて下さる。
・悪霊の追い出しのスクール(School of Deliverance)では、マスデリバランス(Mass deliverance)を行うこともある(受講者多数に対して、悪霊の追い出しの祈りを開始することによって、その人たちの中にいる悪霊をmanifestさせる)。
・Manifestした悪霊を、イエス・キリストの名によって、権威によってdeliverする(追い出す)。言葉によってdeliverする。(今泉注、ジャシンスキ牧師は、このように言葉(みことば)によって悪霊を追い出すプロセス全体を"Prayer"-祈り-と呼んでいる)
・最近行なったSODの中のマスデリバランスでは、午後5時から始めて、悪霊がいることがわかったすべての希望者に対して、1対1の追い出しの祈りを行なって、全員が終わったのは朝の8時だった。
・自分の娘が体の部位の痛みを抱えていた。これについて、聖霊に聞いたところ、悪霊の追い出しと同じように、主イエスの名によって追い出しなさいとのことだった。そのようにしたところ、瞬時に痛みがなくなった。このように、病や痛みには、場合によっては、悪霊の追い出しと同じように対処できることがある。

◯質疑応答
問:福音書にあるイエス様のように、悪霊の追い出しが一瞬で済む場合もあれば、長くかかる場合もある。どう違うのか?
答:悪霊の追い出しは、プロセスであるということ(手順を踏んで、段階的に行われるものである)。すぐに追い出しが完了する場合もあれば、長時間かかる場合もある。数週間、数ヶ月、場合によっては数年かかることもある。

時間が限られていたため、お話の中身は概要程度に留まりましたが、ジャシンスキ牧師の取り組みの姿勢がよく理解できるセッションになったと思います。日本にお寄り下さって、悪霊の追い出しの知見をシェアして下さったジョゼフ・ジャシンスキ牧師のご奉仕に感謝いたします。

 



 

同牧師によると、今回の来日では、「日本に行って下さい」とメッセージが添えられた献金が3回あり、それに呼応する形で来日されたそうです。
今回の来日ではご子息で高校生のイライジャ(日本語でエリヤ)君を伴っていらっしゃいました。

私自身については、前回2017年9月に来日された際に、偶然の成り行きで10日弱、毎日アテンドする形になり、東京と大阪で彼と一緒に多くの時間を過ごしました。その中で、悪霊の追い出しの場で通訳する機会が2度あり、前後で悪霊の追い出しに関する多くの会話があって、自然とその中身を把握する形になりました。



イエス・キリストは「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行なう」とおっしゃっています。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
(ヨハネ14:12)

マルコ16:17で言われていることも、まったく同じことです。

従って、悪霊を追い出すことも、信じる者には誰でもできる、主イエスの名による業なわけです。ただ現状は、ほとんどの教会において取り組まれていないということがあります。それには歴史的な背景があるようです。すでに述べたように、初代教会の伝承が歴史のどこかでなくなり(聖霊が教えて下さったところによれば、カトリックがローマ帝国の国教になる過程で)、信じる者に働く「みことばに伴うしるし」が教会で教えられなくなったと思われます。その後に成立したプロテスタントにおいても、その状況が続いています。



福音書に立ち返ってみると、イエス様は確かに、人の病を癒し、盲人の目を開け、死人を蘇らせ、神の国の福音を宣べ伝えて歩いておられました。その中で、悪霊・汚れた霊の追い出しも、かなりの箇所で行なっていらっしゃいます。

私は、人の中にいる悪霊を追い出すこともさることながら、その地域における悪霊の影響を排除することも、非常に重要なことであると受け止めています。イエス様は福音書の中で確かに人の悪霊も追い出して歩かれましたが、それと並行して、その地域にはびこっていた悪霊を追い出して歩かれていたのではないかと解釈しています。

異教が崇拝されてきた地域、偶像崇拝が行われてきた地域では、その異教的な崇拝の目に見えない影響が「悪霊」と総称せざるを得ない形で残っていると考えられます。その中身は、例えば、自殺の傾向、家系に続く不自然な不幸、汚れたものに執着する人々の性向、狂乱や肉欲への耽溺の傾向、多種多様な占い、などなどです(マタイ12:43-45のような行動パターンを示します)。

こうしたものは、福音書の中でイエス様が行なったのと同じやり方で、縛るなり、追い出すなりして歩かないと、影響が除去できません。それも含めて、マルコ16:17で言っている「信じる者に働くしるし」の一つの「私の名によって悪霊を追い出し…」ではないかと思うのです。つまり、地域の悪霊も追い出して歩く、縛って歩くことが不可欠ではないかということです。
悪霊を縛る際の根拠聖句は、マタイ16:19の「御国のかぎ」です。これはジャシンスキ牧師も用いています。



イエス・キリストは、福音書の中で、「神の国は近づいた」ということを宣言して歩いておられます。

この地の上は、残念ながら、創世記冒頭で、アダムが地の上の支配権をサタンに奪われてしまったがために、敵の霊がはびこる、非常に住みにくいものになっていました。それをイエス・キリストが十字架とよみがえりによる勝利で、奪い返して下さったのです。ハレルヤ!感謝します!

ただし、それを自分がいる場所で具体化するのは、信じる者が口から出す言葉や祈りによってです。それがステパノなど初代教会のメンバーが口にしていた、生きた「みことば」です。神の力が働く神の言葉です。信じる者は、祈りとして、口から出す宣言として、主イエスの名によって、そうしたみことばを地の上に放っていかなければならない。そこに主イエス・キリストが働いて下さいます。

 

そのようにして、この地の上のサタンや悪霊の影響を無くしたところに「神の国」が現れる。そうではないでしょうか?

 

8月15日に開催されたジーザス・レインズというイベントでは、多くの牧師が地域にはびこる悪霊を縛る祈りをしていました。それに接して、大変に励まされました。ハレルヤ!