Anton(聖書に登場する"ざくろ")
聖書の中のみことばには、預言としての側面があります。
預言とは、時が来れば実現する、ということです。
預言の一番わかりやすい例は、大天使ガブリエルが処女マリアに告げた、イエス誕生の知らせです。
御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
(ルカの福音書1:35)
このみことばの通りに、主イエスはお生まれになり、信じる人々を救うためのすべての業を成し遂げて、天に上げられ、神の右の御座にお着きになりました。
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同じルカの福音書で、ザカリヤにやはり大天使ガブリエルが現れて、バプテスマのヨハネが生まれるということを告げます。(ヨハネは聖書に複数登場するので、聖書では「バプテスマのヨハネ」と区別して呼ばれています)
ヨハネはこのガブリエルの預言を信じなかったので、その預言が成就するのに妨げになる言葉を口から出すことがないように、ヨハネが誕生するまで、口が聞けなくなります(ルカ1章)。
神の言葉、預言が、この地の上で実現するには、人間が口から出す言葉が深く関わっています。
預言は、この地の上ではひとりでに成就するものではなく、信じる者が口から出す言葉が深く関わっています。
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口から出す言葉がいかに大事であるかは、主イエスが説明した以下のくだりによく現れています。
朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」
イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。
まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
(マルコの福音書11:20-24)
このいちじくのエピソードは、まことに興味深いです。
同じエピソードが、マタイの福音書にも書いてあります。
聖書で繰り返し書かれていることは、それだけ重要だということです。
また、聖書で書かれていることには、多くの場合、二重三重、いや三段階も四段階も深い意味が隠されていることがあります。深い意味を理解するには、何度もみことばを口に出してみること、祈りによってそのみことばに集中すること、聖霊がもたらす啓示。あとは、主イエスに直接聞くこと。そうしたことを通じて理解できるようになります。総じて、聖霊の助けが必要です。
このいちじくのエピソードでは「実を成らせる」ということと、「自分が言う」ということとが、重ね合わされて伝えられていると思います。
・イエスが空腹を覚えて近づいたいちじくには、実が実っていなかった。
・イエスは、いちじくの木に向かって、「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」(マタイ)、「今後、いつまでも、だれもお前の実を食べることのないように」(マルコ)と言われた。
・そのいちじくの木は、イエスの言葉の通りに枯れた。
・そうして弟子たちに、この出来事から学ぶべき事柄を教えられた(上で引用したマルコ11:20-24の内容)。
これは、次のように解釈できます。
イエス様としては、主イエスを信じている人たちに、実を成らせてほしい。
その実は、信じて祈って求めれば、イコール、自分の言った通りになると信じれば、必ず成る。
そのようにやってごらんなさい。
それをわかりやすいように、少しショッキングな例で行なって見せた。
この教えのポイントは、いちじくの木が枯れたところにあるのではなくて(ネガティブな結果をもたらすものではなくて)、その後に続く教え。つまり、山に向かって動いて海に入れと言って、それを言った通りになると信じれば、その通りになる、というところにあると思います。以下のみことばにある通りです。
あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。
(マタイ21:22)
信じて、口で言って、祈り求めると、それが与えられて、実を結ぶ。それをやってごらんなさいと、主イエスは言っているのだと思います。信仰の言葉を口で言う。それは本当に大切です。
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実を結ぶ話は、四つの福音書にわたって、多数の箇所で出てきます。
検索のできる聖書で、「実」「結」の2つの文字で検索してみると、24箇所出てきます。なおこれは、新改訳の場合です。新共同訳を使っている方のためにも、その箇所を列挙します。
それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
(マタイ3:8)
斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
(マタイ3:10)
同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
(マタイ7:17)
良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
(マタイ7:19)
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
(マタイ13:8)
また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
(マタイ13:22-23)
だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。
(マタイ21:43)
また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
(マルコ4:7-8)
世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。
(マルコ4:19-20)
それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
(ルカ3:8-9)
悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。
(ルカ6:43)
また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれた。
(ルカ8:8)
しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。
(ルカ8:15)
もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』
(ルカ13:9)
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
(ヨハネ12:24)
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
(ヨハネ15:2)
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
(ヨハネ15:4-5)
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
(ヨハネ15:8)
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
(ヨハネ15:16)
このように列挙してみると壮観ですね。実を結ぶことが、いかに大切であるかがわかります。
実を結ぶ際には、前投稿(みことばとして現れる神(上))の終わりのところでも見たように、みことばが「種」としての性格を持っています。
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整理すると。
・みことばを聞いて受け入れる、みことばを聞いて悟ることが大切。(神の言葉に耳を傾ける)
・私たちは、イエス・キリストというぶどうの木に付いている枝。イエス・キリストに結び付いていることで、実を結ぶことができるようになる。(イエスを信じて、イエスの名によって祈る)
・実を結ぶには、みことばを口で言って、言った通りになると信じることが大切。(信仰によって、みことばが実現する)
・イエスの名によって、信じて父に祈り求めれば、何でも与えられる。(山を動かす信仰の教えにあるように、何でも)
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
(ヨハネ15:8)
とある通り、私たちが、みことばを信じて、主イエスの名によって天の父に求めれば、それが実を結び、天の父が栄光をお受けになります。
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冒頭で、聖書の中のみことばには、預言としての側面があると書きました。預言とは、時が来れば成就するということです。
預言は、神からいただく言葉です。預言は神の言葉。
使徒の働きやパウロ書簡に生き生きと描かれている初代教会においては、預言が尊重されていました。
パウロは、御霊の賜物として「預言すること」を熱心に求めなさいとコリント教会に勧めています。
愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。
(第一コリント14:1)
使徒の働きにも、預言をする娘のことや、預言者のことが記されています(使徒13:1、15:32、21:9、21:10)。
あの当時にあった教会における預言への取り組みが、ある時から取り組まれなくなり、預言を遠ざける慣行が多くの教会に浸透して現在に至っているのは、嘆かわしいことです。預言に限らず、パウロ書簡で御霊の賜物として記されている事柄が、「パウロの手紙の中にある過去の事柄」になってしまっています。
いずれにせよ、預言は時が来れば成就する神の言葉です。
成就させるのは、神です。神の働きです。
以下にある通り、神は、神の言葉を見張っています。
すると主は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。
(エレミヤ1:12)
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聖書の中には、未だ成就していないみことばがあると思っています。
成就するには、主イエスを信じる人たちが、信仰を持って、そのみことばを口で言って、言った通りになると信じることが大切です。そこに神の力が働きます。
例えば、以下のみことば。まだ成就していないと考えられます。
すると、イエスが彼らに言われた。「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか。
ダビデ自身が詩篇の中でこう言っています。『主は私の主に言われた。
「わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。」』
(ルカ20:41-43)
「わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで」とは、どういう意味でしょうか。
これは、「わたし」とおっしゃっている主体が旧約の「主」、すなわちこちらの投稿で細かく見た「YHWH」と記されている、新約で言う「天の父」です。
「あなた」とは、御子イエス。
「敵」とは、サタンです。
天の父が御子イエスの敵であるサタンをイエスの足台とする、と言う意味になります。
現在の主イエスは、続く部分にあるように、天の父の右の座に着いていらっしゃいます。
主イエスが天の御座にいらっしゃる時、この地の上には誰がいるでしょうか?
人間です。主イエスを信じる人々です。
聖書の世界観として、創世記でアダムに与えられた地の支配権は、アダムがサタンの言うことを聞いてしまったがために(神の言葉ではなく、サタンの言葉を聞いたのです)、サタンに奪われてしまいました。その状態を回復したのが主イエス・キリストの十字架と復活です。
しかし、主イエスを信じる人が、イエスの名によってサタンに勝利できるとは言え、現状は部分的なものに留まっています。主イエスの名による、クリスチャンの地上の支配は部分的です。
「あなたの敵をあなたの足台とする時」とは、天の父も主イエスも天にいて地の上のことはできない状況で、地の上にいる主イエスを信じる人々が、主イエスの名によって力強く動いて、サタンを主イエスの足台とすべく動く。そう言うことだと解釈しています。
そうしてそれが、いずれは成就するのです。
いつでしょうか?
クリスチャンにかかっています。
追記。
ローマ16:20(前半)を見落としていました。
平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。
これも、上の事柄に関連するみことばです。
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そのように、聖書の中には、未だ成就していない預言が複数あります。
例えば、人が神の神殿となる(第一コリント3:16、第二コリント6:16)というみことばも、まだ成就していないように思えます。
すべての教会において、人が神の神殿になる、すなわち、すでに内住して下さっている聖霊だけでなく、主イエスも天の父も、人のところに一緒に来て下さって、一緒に住んで下さる(ヨハネ14:23)という信仰は、持たれているわけではありません。信仰があるわけではないため、実現していません。
しかし、誰かがこの信仰をはっきりと持ち、口で言い、祈ることによって、これは実現します。
実は、初代教会では、すべてのみことばが正しく取り扱われ、信仰が生き生きと働き、みことばが生き生きと働いていました。すなわち、「みことばに伴うしるし」と書かれている出来事が常日頃から生じていました(マルコ16:20)。
残念なことに、あれだけ生き生きと働いていた初代教会は、歴史の中から失われてしまいました。
私は、仮説ですが、その後に生じてきた会派が勢力を拡大する上で、初代教会の痕跡が残らないようにしたのだと考えています。初代教会の姿は、聖書の新約聖書の中にのみ窺われるという状況になりました。それがゆえに、パウロが強調していた御霊の賜物である預言や異言、癒し、奇跡などが、教会の中で長らく(1800年程度)取り扱われてこなかったという経緯があります。
しかし、神の言葉は、神がいつも見張っていますから、いつか必ず成就します。むなしく自分の所に戻ってこないと、天の父は語っておられます。
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。
(イザヤ55:11)
初代教会では生き生きと働いていたみことば。
信じて口で言う者に神の力が働くみことば。
主イエスの名によって信じて祈り求めれば、天の父が何でも与えて下さるみことば。
このことも、まだ成就していないように思えます。いや、初代教会である時期まで成就していたものが、打ち消されてしまいました。(誰が行ったのでしょうか?パウロがエペソ6:12で書いているように、血肉ではありません)
そのみことばを信じる信仰が、いわば初代教会が復活するような姿で、再び現れると考えられます。
みことばとしての主イエス・キリストを信じる信仰が、いつか立ち上がります。
それによってのみ、聖書で記されている未だ成就していない事柄が成就し、主イエスの再臨につながって行くと思うのです。
ハレルヤ!