神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
(コロサイ1:13)
「暗やみの圧制」とは、この地の上に、いわく言いがたく重苦しくのしかかっている、神の祝福の正反対にあるもの。主イエスの敵である霊から来る、目に見えない圧迫や束縛や不自由。そうしたものですね。
イエス・キリストを信じて、彼のことばを信仰によって自分のものとし、彼のことばを実践していくことによって、「御子のご支配」、すなわち、上に述べた諸々の重苦しいものからの完全な自由に入ることができます。
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毎年この時期になると、ハロウィンに関する警告の投稿が数多くのクリスチャンブログにおいて掲げられます。これはよいことですね。2010年代半ばぐらいまでは、ほとんど見られなかったことです。私も、2015年ぐらいまでは、ハロウィンが悪魔崇拝に関係した行事だということを知りませんでした。
何もご存知ない方は、「ハロウィン」と「悪魔崇拝」の2語で検索してみるとよいでしょう。上位に出てくる記事などを何本か拾って読めば、ハロウィンがどのようなものか理解できます。
日本は、神社仏閣や道祖神があふれている社会であり、その背後で動いている非聖書的な霊の影響が色濃く覆っている土地だという特徴があります。聖書的な枠組みで言えば、偶像崇拝の「偶像」が社会の至る所で拝まれてきた土地柄です。そのため、聖書の枠組みで言う「聖なるもの」と「汚れたもの」との明確な区別が、社会的な感覚としてない、という残念な現実があります。
従って、ハロウィンのような欧米から入ってくる、霊的には完全にNGであるものを、警戒心なしに受け入れ、ふざけ心でその習俗の中に入り込んで、ドンチャンやらかします。これは、神社仏閣などの根底に働いている、イエス・キリストとは正反対にある、目に見えない霊の活動を、日頃当たり前のこととして受け入れていることと、根は同じことなのだと解釈しています。
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パウロ書簡の中には、聖霊と豊かに交わることによっていただくことのできる「御霊の賜物」のことが書かれています。
御霊の賜物とは、聖霊からいただけるギフトのこと。ある種の能力です。その一つに「霊を見分ける力」というのがあります。
ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、
またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、
ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
(第一コリント12:18-10)
これらの御霊の賜物は、日頃から聖霊を大切にする態度、聖霊と交わる礼拝、聖霊に満たされる賛美などを心がけていると、自然と備わるもので、いただいたからと言って、自慢できるようなものではないですし、その人が優れているということにもなりません。「思いがけなく聖霊からいただけてしまった」という類のものだと考えています。もちろん大変にありがたいものです。
その御霊の賜物の「霊を見分ける力」ですが、これは、つまるところ、その現象が、あるいは、それを宿している人が、聖書のみことばに合致したものであるか、そうでないかを識別する、メスのようなものです。
聖書の枠組みで言う「霊的」とは、霊として存在している聖書のみことばに100%合致しているということです。
例えば、スピリチュアリズムの中で行われているエンジェル崇拝、天使崇拝は、聖書に関係していそうでありながら、聖書の中で記されている天使、天の御使いなどに関するみことばとは、かなり真逆な姿勢です。
聖書をよく学び、聖霊に常に交わっている人ならば、スピリチュアリズムの天使崇拝、エンジェル崇拝が、すぐに聖書的ではないことに気づきます。瞬間的にわかります。この、瞬間的に分からせてくれる力が、御霊の賜物の「霊を見分ける力」です。根拠聖句としては、ヘブル人への手紙の中にある数カ所の御使いに関する記述が主なものとして挙げられます。
聖霊は、本来的に霊である聖書のみことばに関する理解や実践を助けます(ヨハネ6:63、16:13)。
従って、御霊の賜物の一つである霊を見分ける力が働く際には、聖霊の助けにより、瞬間的に敵の霊のものであるかどうかがわかり、それに続いて、根拠となる聖書のみことばがすっと浮かびます。それにより、「あ、これは、聖書的ではない。すなわち、敵の霊=サタン・悪霊から来るものだ」ということがわかるのです。
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こうした霊を見分ける力がいただけていると、なぜ、家の中にある仏壇が聖書的にNGなのか?なぜ、神社仏閣に行って手を合わせることが聖書的にNGなのか?すぐにわかることです。何の説明もなく、瞬間的にNGだとわかります。生理的にNGだとわかると言っても過言ではありません。
別な言い方をすれば、霊的に汚れているものが、瞬間的にわかります。
そうしてすぐに、それに関連した聖書のみことばがすっと浮かびます。
例えば、次のようなみことばです。
それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
(第二コリント6:17)
彼は、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行なった。
(列王記第二21:2)
神は聖であられるので、汚れたものと一緒に存在することができません。
汚れたものを取り除き、それを主イエスの血によって清める行動は、主イエス・キリストを信じる信徒が行うべきものです。あるいは、教会が取り組むべき事柄です。
何が聖であり、何が汚れているか。それを分からせてくれるのが、霊を見分ける力です。
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日本に限らず、米国でも欧州でも、聖霊と交わることを心がけている教会は多数派ではないようです。
2017年だったと記憶していますが、米国のプロテスタント教会の日曜礼拝中に、マシンガンで武装した暴漢が入ってきて、礼拝中の教職者や信徒多数に弾丸を浴びせたという、信じられないような事件が起こりました。その後、その教会のFacebookのページを見ていて、この教会ではその年の10月末にハロウィンの行事を教会として行なっていたことが、多数の写真からわかりました。親や子どもがハロウィンの仮装をしており、教会の外ではハロウィンの飲食などの場が設けられていました。
これは、聖書に照らすなら、考えられないことです。
キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
(第二コリント6:15)
霊を見分ける力が備わっていれば、どう逆立ちしても、ありえない行事です。
聖霊を大切にしている教会なら、ありえない姿勢です。
キリスト教国である米国でも、教会において、ハロウィンに取り組んでいるところがある。それを知って愕然としました。
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ハロウィンは、古代からあるドルイド教において、人間を、ドルイド教の神に殺して捧げる、悪魔崇拝が源泉になっています。あの仮装行列は、サタンに捧げる人間を探して歩く行列です。
そうしたものが、まず米国においてソフィスティケートされて、子どもが参加する行事になり、それが日本にも輸入されてきて、2000年代頃から目立った動きが出てきました。
日本の社会全般の霊的な土壌として、偶像崇拝に対しては非常にゆるいところがあります。
従って、霊的な警戒心というものがないです。(スピリチュアリズム、占い、アセンションなどに対する警戒心のなさも同根です)
なので、おもしろがって、ハロウィンの行事の中に入っていき、仮装をするなどして、悪魔崇拝のとば口に入ります。
一般的に、あのようなものは、入会儀礼というプロセスを通り、その「内側」に入ります。目に見えない、霊的な事柄で構成されている、悪魔崇拝的な総体の内側に入るのです。
いったん入ると、抜けるのがきわめて難しくなります。
目に見えない霊が、染め上げたような状態になるので、自分でも気づかないまま、そうしたものの中に取り込まれていきます。
聖書で明確に書かれていることとして、サタンが行うことに、盗むこと、殺すこと、滅ぼすこと(永遠にその人を滅ぼすこと=地獄に連れて行くこと)があります(ヨハネ10:10)。
多くの場合は、その霊に強く動かされている人たちが寄ってきて、その人のお金がなくなる状況に追い込まれたり、何らかの中毒に引きずり込まれて死ぬような思いをしたり、説明のつかない病気にかかって治る術がないという状況になったり、していきます。
おそらくは、人を介して、大きな影響にさらされるでしょう。その人も、目に見えない霊であるサタンに動かされているのです。
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聖書全巻が伝えている世界観が頭に入ると、この地上では、目に見えない戦いが繰り広げられていることが理解できます。
すなわち、イエス・キリストが引っ張り上げて、永遠の救いの中に入って行く人たち。それに対して、サタンが引きずり込んで、永遠の滅びの中に入って行く人たち。そのようにして、人が、イエス・キリストによって救われるか、サタンによって滅ぼされるか、神の御子であるイエスと、神に反逆したサタンとが、この地の上でせめぎあっているのです。
この戦いに、人も関わっています。
イエスの側に立って、多くの人を、永遠の命の方へと引きずりあげる助けをする人たち。
また反対に、サタンの側に立って、多くの人を、永遠の滅びへと引っ張って行く助けをする人たち。
両方います。しかし、いずれも、その人の意思というよりも、霊に動かされています。
前者は、主イエス・キリストを信じることによっていただける聖霊です。
後者は、敵の霊、すなわちサタンないしその下位の諸々の悪霊です。
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こうした、敵の霊がもたらす霊的な汚れから、完全に清めて下さるのが、イエス・キリストが十字架で流された血です。
これについては、過去の投稿で、何度も触れてきていますので、必要な方はそちらをご覧ください。また、YouTubeで「デリック・プリンス」で検索すると、イエスの血に関する優れた講義の動画が日本語の翻訳付きで見つかります。イエスの血の尊さについて教えている教会は、あまりないようなので、この優れた講義で、イエスの血に関する聖書的な理解を深めておくのが良いと思います。
イエスの血は、神のひとり息子が出された血です。ユダヤ教の儀式で捧げられる羊や牛の血とはまったく異なります。その血の意味を理解するには、旧約と新約と、双方のみことばに目を配る必要があり、普通はできにくいです。それを優れた聖書学者であるデリック・プリンスが、代行して下さっている格好になります。
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最近、創世記冒頭でアダムに与えられた祝福である「地を支配せよ」という神のことばの「支配」に、大切な意味があることがわかってきました。
神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
(創世記1:26-28)
自分が、何に支配されているのか?
言い換えれば、自分は、主イエスが勝ち得たものに基づいて、地の上のものを支配しているのかどうか?逆に、支配されてはいないか?
ということです。
この「支配」について、クリアーに理解するために、主イエス・キリストの役割と、サタンが人間に及ぼしている影響・縛りの関係を、まず箇条書きで整理します。
・創世記冒頭で、神が人間に対して、「地の上を支配せよ」と祝福され、お命じになった。
・これには、神に似せて造られた人間が、神に似たやり方で地の上を支配する、という意味がある。天の領域は神が支配する領域。地の領域は人間が支配する領域。そういう区分がある。
・しかし、人間(アダムとエバ)は、サタンの言うことを聞いてしまい、地の上の支配権がサタンに移ってしまった。(サタンは神から人間に与えられた祝福を盗んだ)
・人間は、様々な形で、サタンに支配されることとなった(比喩としてのエジプトでの奴隷状況)。
・モーセを通じて律法が与えられた。しかし、律法は不十分だった。しかも、ユダヤ人しか救われない。異邦人は救いから漏れている。
・イエス・キリストが現れた。十字架に付けられ、よみがえったことによって、サタンがもたらした死にも打ち勝ち、サタンの支配をすべて打ち壊した。
・イエス・キリストを神の子であると信じる者すべてが、イエスのもたらした救い・解放にあずかることができるようになった。信じるだけでよい。
・しかも、イエス・キリストによる救いは、ユダヤ人だけでなく、異邦人(非ユダヤ人)であるわれわれ日本人にも及ぶところとなった。ハレルヤ!
・イエス・キリストが勝ち得たもの、すなわち、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威(ルカ10:19)、すべての上に高く置かれた名(エペソ1:21)、イエスの名によって天の父に祈る神の子どもとしての地位(ヨハネ1:12)などを信徒が用いることによって、サタンのすべての支配をはねのけ、逆に、主イエスとともに地の上のものを支配できる。
短くまとめれば、創世記冒頭で人間に与えられた「地の上を支配せよ」という、神からの祝福であり命令。これをサタンが盗んで奪っていた状況が、主イエスによって回復しました。イエス・キリストによって、初めて、人間が地の上で実践できる命令になったということですね。「地の上を支配する」。信仰により。みことばにより。主イエスの名により。聖霊の助けにより。
これが大前提です。
これが、主イエスの勝ち取られたすばらしい状況です。これもまたすばらしい福音、グッドニュースです。
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これを前提に考えると、自分は、主イエスとともに支配している側にあるか?それとも、地の上のものに支配されていないか?と問いを立てることができます。
例えば、自分を取り囲んでいる「仕事」に支配されていないか?
仕事で、ぎゅうぎゅうになって、大変な思いをして、結果として第三者的に見れば、仕事によって支配されているような格好になっていないか?
例えば、何らかの病について。
病が治らないという、世間的な常識に染まってしまって、聖書で教えている病の癒しが遠くなって、結果として第三者的に見れば、病によって支配されていないか?
例えば、経済やお金について。
経済的な事柄に関するこの世の常識に染まってしまって、聖書のみことばで約束されているいくつもの祝福が頭から飛んでしまって、結果として、経済やお金によって自分が支配されていないか?
新約聖書で「支配」と訳されているものを、英語訳で確かめると、Reignという動詞です。これは「独裁者が支配する」というニュアンスで使われる「支配」ではなく、「賢い王が統治する」というニュアンスの動詞です。ギリシャ語原義を確かめると、「王として統べ治める」という意味のようです。
主イエスが勝ち取られたもので支配するとは、主イエスとともに、愛によってこの地の上のものを統べ治める、という意味合いになるでしょう。
どのように?
みことばによって。信仰によって。信仰のみことばを口から出すことによって、です。
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
(ローマ8:32)
みことばは、信仰を持って口から出す時に、そこに神の力が働きます。
イエス様は、私を信じる者は私と同じわざを行いますとおっしゃいました。それは、イエス様と同じように、口から発する言葉によって、状況をよりよく変えていくということです。病を癒し、悪霊を追い出し、というのは、その人や対象や地域に働いていたサタンの支配を、口から出る信仰の言葉によって力強く排除していくことに他なりません。
信仰のある言葉を口から出すことによって、愛によって、主イエスとともに支配するのです。
そういう観点があるのだなと、最近、気づきました。
私も実践はこれからです。
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そのように、創世記で人間に与えられた、この地の上を支配せよという祝福と命令。
これが、主イエスによって、我々信じる者に可能になった状況。
それがあってみれば、主イエスとともに、愛を持って支配する側に立っているか。
それとも、地の上の諸々のものに支配される側になっているか。
そういう観点で見られるようになります。
地の上の諸々のものに支配されるとは、直接的間接的に、サタンの支配の影響下にあるということです。
ハロウィンに関わってしまうことなども、つまるところ、サタンの支配の中に入ることです。
こういうことがわかってくると、冒頭に掲げた聖書のみことばのありがたさが、身に染みてきます。
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
(コロサイ1:13)
アーメン!
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具体的に、地の上のものを、主イエスとともに支配していく行為は、イエス様が私たちに与えて下さった「御国の鍵」を使って、地の上でつなぐ・縛る・止めるべきものをそのようにし、地の上で解く・解放する・開くべきものをそのようにすること。それが基本中の基本なのかなと思います。
わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。
(マタイ16:19)
自分が、直接的間接的にサタンから来る地の上のものによって支配されているならば、あるいは、支配されそうな状況にあれば、そのものを特定した上で、上のマタイ16:19を根拠聖句として、必要な言葉を自分の口から出します。
例えば、「主イエスの名によって、○○○○○をこの地の上で縛る!これによって、天でも縛っていただけることを宣言する!」と、そのものに対して、その対象に対して、直接言います。直接言うのは、イエス様の教えにある、山に向かって動いて海に入れと言う、と言うのと同じ原理です。
あとは、何度も何度もこれを行なって、慣れていくということに尽きます。
私たちは、王である祭司という位置付けもありますから、宣言する言葉に、「王である祭司として宣言する!」と付け加えることもできます。
サタンや悪霊に対しては、イエス様からいただいている、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威によって(ルカ10:19)、宣言します。
信仰があれば、そのようになります。なぜなら、主イエスが天で執り成して下さるからです。主イエスがくびきを一緒に負って下さっているからです。