みことばとして現れる神(上) | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Wally Gobetz

 

プロテスタント教会では「みことば」を強調します。

これは、プロテスタントという大きな流れの創始者であるマルティン・ルターが、それまで所属していたカトリックの教義に対して軌道修正をかけるべく、「聖書中心主義」を打ち出したことに端を発しています。カトリックでは聖書に書かれていない事柄についても、教会活動の中に採り入れていますが、プロテスタントでは聖書に書かれている事柄のみで教会活動を形作ります。これは、聖書の言葉が神の言葉であるという信仰に拠っています。

しかし、創世記以降の大きな歴史の流れを省みるなら、神の言葉に立ち返るということは、何度も何度も行われてきたことです。旧約聖書に記されているイスラエルの民は、モーセの律法(神の言葉の集まり)から離れて、別の神を崇拝した時期が何度かありました。その都度、悔い改めに導かれ、本来の神の言葉に戻っています。
ルターから始まったプロテスタントも、こうした、歴史の中で何度も繰り返されてきた神の言葉に立ち戻る運動の一つだと捉えることができます。

そうして、モーセの時代には、神の言葉はモーセや預言者に与えられ、モーセ五書(創世記から申命記まで)、歴史書(ヨシュア記からエステル記まで)、詩歌(詩編など)などとして、文字として記されて伝承されていました。

しかし、その後に、神の息子であられるイエスが地の上に送られて、イエスご自身が生きた神の言葉として、色々の業(わざ)をなし、福音を宣べ伝えて、旧約聖書の預言にある通りに十字架に付けられて、人間一人ひとりの罪の身代わりの犠牲となられました。そうして、三日目に人知をはるかに超えた父なる神の優れた力が働いて死からよみがえり、サタンがもたらした神の祝福の正反対にあるもの、死を克服されました。

これにより、神の子であり、十字架に付けられ、その後によみがえられたイエスをキリスト(救い主)であると信じる者すべてに、死を克服する祝福=永遠の命を与えられる道が確立されました。ハレルヤ!



聖書はどのように読み込んで行っても、最終的に「イエス・キリストのこと」と「みことばのこと」に落ち着きます。そうして、ヨハネの福音書の冒頭を素直に読むなら、イエス・キリストはみことばでもあられます。

本投稿では、この「みことば」について、整理してみたいと思います。



みことばは、神の言葉であるので、そこに神の力が働きます。

以下は、ペテロがみことばを宣べ伝えていた時に起こった不思議な出来事について記しています。

ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。
(使徒の働き10:44)

みことばを話している最中に、それに耳を傾けていたすべての人に聖霊が下ったというのですから、これはある種の奇跡です。みことばが生き生きと働くことの証拠だと言えるでしょう。


また、イエスは、みことばによって霊ども(その土地にはびこっている悪霊)を追い出しました。

夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。
(マタイ8:16)

イエスは、サタンのしわざを打ちこわすために地の上に遣わされましたから、イエスの口から出るみことばには、強い力があったと思われます。みことばに神の力が働いて、敵の霊=悪霊が追い出されるのです。


さらに、みことばは、盛んになって、広まって行く物です。それ自体が命のような生き生きとした力を持っています。これは神から来るものです。以下の「主のみことば」とは、主イエスに関するみことば、主イエスがおっしゃったみことばという意味です。

主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。
(使徒の働き12:24)


これも、よく考えるなら、不思議なことです。地の上には、みことばがなく、人間の言葉だけがあふれている状況だった。そこにみことばが蒔かれると、どんどん広まって行ったということです。

さらに、みことばには、しるしが伴い、主イエスがみことばを確かなものとされます。

そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。
(マルコ16:20)

「しるし」とは英語で"sign"。神の力が働いていることが誰の目にもハッキリとわかる出来事、現象、癒し、奇跡、不思議なことなどを言います。福音(簡単に言えばイエスを信じることで救われるというメッセージ)のみことばを宣べ伝える時、そこにしるしが伴う、というのはどういうことでしょうか。信じて福音のみことばを告げ知らせて歩く際に、そこに神の力が働いて、何らかの不思議なことが起こるということを言っています。使徒の働きにその一端が書かれています。


これらのことから、みことばには、主イエス・キリストに関係した神の力が働く、ということが言えるでしょう。
ヨハネの福音書冒頭に記されているように、言葉は神であった、すなわち、みことばは御子イエスであった、ということだからでしょう。



続いて、みことばは、実を結ぶものであるということ。このことも、新約聖書の複数の箇所で記されています。

良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。
(マルコ4:20)

しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。
(ルカ8:15)

これは、神の言葉であり、イエス・キリストの福音を含んだみことばが、みことばに働く神の不思議な力を通じて、増えて広まって行くということを示しているのでしょう。みことばは、目に見えない神の助けや神の祝福が働いて、そこに神の業(わざ)であることがハッキリとわかる何かを確立するのでしょう。

このようにして実を結んでいくことによって、天の父が栄光を受けるということを、イエスがおっしゃっています。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

(ヨハネ15:7-8)

主イエスを信じる人が実を結ぶということに関して、主イエスは、天の父が農夫で、主イエスがぶどうの木であるというたとえを、ヨハネの福音書15章で語っておられます。また、多くの実を結ぶ時の条件なども説明しています。ぜひともお読み下さい。



みことばが実を結ぶものである以上、実に至るための原点としての「種」としての特性が、みことばにはあります。

主イエスは、よく、種まきのたとえを話されました。

種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。
同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、
根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。

(マルコ4:14-17)

みことばは、信じられるものであり、信じた人が語るみことばには、種としての力があります。

個人的な経験としては、二十歳の頃、あることがあって大学を休学して田舎の弘前に戻っていた時に、道でひょっこり、クリスチャンである大叔母に会いました。その時の私はうちしおれていましたから、会ってすぐに大叔母にも私の状況がわかったでしょう。少し言葉を交わして、彼女は、聖書のみことばを口にしました。「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない」(口語訳による)。
この言葉は、その当時の自分にとっては、すぐに関心の外に行ってしまったのですが、それでも時々「患難は忍耐を生み出し…
」というところだけは、何度か思い出していました。
その後、クリスチャンになってから、ローマ人への手紙5章3節から5節にかけてのみことばであることを理解しました。

私がクリスチャンになったのは、その後、十数年も後のことですが、ここで大叔母から蒔かれた種としてのみことばは、その間も、種として私の内に留まり続け、このみことばの意味がよく理解できるようになってから、改めてこの箇所を読み直してみて、「ああ、なるほど、そういうことか」「患難にも、意味があるのか」「信仰とはそういうことか」と、いくつかの理解をいただきました。

種であるみことばは、その時すぐに芽を出して育たなくとも、長い期間を経て、芽を吹き、実りに向かって成長して行くことがあります。なので、種蒔く立場にある人は、種蒔くことをやめてはいけないと思います。それはある時になって、豊かに実を結ぶはずです。主イエス・キリストの力が働きますので。