日曜投稿:自分目線をやめてみる | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

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ハレルヤ!主イエス・キリストの御名を賛美します!

今朝、自分が住んでいる浅草の界隈を軽いジョギングを組み入れてウォーキングで回って来ました。かなり前に書いたジストニアの症状が現れて以降、ジョギングができなくなって----それは症状がピークの時には前を見てまっすぐに歩くことも難しくなったからですが----かれこれ4年ぐらい、ジョギングやその他の運動らしいことをやめていたのですが、この1ヶ月弱、徐々にウォーキングから始めて体を慣らし、ジョギングも取り入れ始めているところです。

隅田川の両岸は歩く人や走る人、自転車、犬を連れた人などが行き来できる幅数メートルのテラス状になっています。アサヒビール本社が控えている吾妻橋のテラスに降りた時、東洋風の音楽を流しながら、小さな丸いシートを敷いて瞑想をしている人がいました。こちらで書きましたが、私は1980年代から90年代にかけて、東洋系の瞑想やユング系のグノーシスの流れにあるものに傾倒しており(それもつまりは解放を求めてのことでしたが)、密教系の瞑想を試みたりしたこともあるので、その吾妻橋のたもとで瞑想をしていた方の行っている中身がおおよそは理解できました。
主イエス・キリストにあって、その十字架により、流された血により、みことばにより、聖霊により、まったく刷新されている現在の私が持っている聖書の理解によれば、東洋系の瞑想は、単なる健康法のようなものではなくて、非聖書的な神から来る、非聖書的な霊の影響を受けている、主イエス・キリストの敵の霊の配下にある行動です。もちろん、よくないです。

その方について、主はどのように思っていらっしゃるのか。その方に対するみこころはどういうものであられるのか。それを知るために、小さく祈りによって「天のお父様、イエス様、あの瞑想をしている方へのあなたのみこころはどのようなものでしょうか?」と尋ねてみました。

なぜ、こういうことをしているのかと言うと、米国で預言者としてのミニストリーをしているショーン・ボルツが、動画の中で、「預言の賜物によって、知識の言葉によって、愛をもってそれぞれの人に神のメッセージを届けることの訓練として、近くにいる人について、主のみこころは何ですか?と尋ねてみるとよい」という意味のことをおっしゃっていたからです。それを自分も試してみたところです。
また、ウォーキングなどをしていて、明らかに執り成しの祈りを必要としている路上生活者の方などがいたら、最近は、小さく声を出して祈るようにしています。こうした、小さな気づきによる祈りも、私は聞かれると考えています。

その東洋系の瞑想をしている方(女性でした)について、主のみこころを伺ったところ、チベット密教のマンダラによく描かれている、足を組んで印を結んでいる像の背後にいる、大きな、東洋系の形相をしたその宗教の神の姿が見えました。彼女の背後に、その宗教の神が、大きく覆うように、存在していたのです。それは、現実に見えたというのとは若干異なり、心に浮かぶイメージとしてさっと視覚化されたといったところです。聖書の神が何かを見させて下さる時には、さっと心のうちに視覚的にイメージを浮かばさせて、すぐに消えてなくなる、というパターンが多いと思います。いずれにしても、そのようなイメージが浮かびました。

これによって、主は「その女性は、そうした東洋系の神によって所有されているんだよ」ということを教えて下さったようでした。英語のposession、to be possessedという言葉がすぐに浮かびました。所有、所有されるという意味で、to be posessedで、「(悪霊)などに憑かれる」という意味もあります。

東洋系の神によって所有されている人に対して、主は、どのようなみこころをお持ちか?もちろん悲しんでおられることは確かでしょう。すべての人間は、天地創造をなさった神の被造物。本来ならば、神の所有物です。それが、非聖書的な神の霊によって所有されているのです。その悲しみは、深いことでしょう。



現代に生きている人は、「私が幸せになるためには、どうすればいいか?」、「私がこの苦しみから逃れるには、どうすればいいか?」という考え方を、普通はします。「私たちの家族がよい生活をするにはどうすればいいか?」、「主人が、私が、健康で長生きして、子どもたちが成人するまで、どうすれば今の生活水準を保てるか?」そういう発想をすることが、普通に行われています。

現在もリアルタイムで働いておられる天の父、主イエス・キリスト、聖霊による、神の目線からすれば、その方やその方の家族を祝福したいと思っておられることはもちろんです。

息子であったイエスをこの地に送られて、聖書の預言どおり十字架にかけさせて、救いの道を切り開いて下さったのは、天の父が、一人ひとりの人間を、この世を覆っているこの世の神であるサタンから解放し、永遠の祝福の中に入れて下さるためです。

神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。
(第一ヨハネ3:8b)

神の目線からすれば、常時、その人に対して、何かをしてあげたい、そこから救い出してあげたい、癒してあげたい、と思っていらっしゃるわけです。

主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。

(詩編103編3-5)

私たちが気づかなくても、霊であられる主は(第二コリント3:17)、私たち一人ひとりのすべてを見て、すべてを理解しておられます。霊であられる主は、目に見えないですが、物理的な距離を超えて、いつでもどこにでも、存在しておられます。神であられますから、人知をはるかに超えた働きをなさいます。(黙示録4:11)

ですから、「私が、これこれこのようになるのに、どうすればいいか?」
という発想ではなく、まず「天の父は、どのように思っていらっしゃいますか?」、「イエス様は、どのように思っていらっしゃいますか?」、「聖霊様は、どのように思っていらっしゃいますか?」と、素直に聞く。そういう発想に切り替えることで、多くの事柄が大きく変化してくると思います。

もちろん、主イエス・キリストは、「言葉は神であった」とヨハネの福音書冒頭にあるように、神の言葉でもある存在ですから、神が何をなさる時には、必ず、聖書の言葉で約束されている内容に沿って動かれます。

なので、主から、みこころを教えていただき、それを受け止めるためには、日頃から、聖書のみことばに親しんで、それを受け止めるための器を整えておくことが必要でしょう。



ポイントは、主イエス・キリストの父なる神、御子であられる主イエス、聖霊なる神。聖書でみことばを語っておられるこの三位一体の神によって、自分が所有されているという関係を、常に、新しくし、汚れや傷が付いたら、掃除したり修復したりしておくということです。

お分かりのように、実に多くの人々が、この世の神や、非聖書的な神々によって所有されています。一般的に現代人は、「何かの神によって、自分は所有されているのだ」という認識を持たないですが、その実、はびこるタイプの影響力によって、この世の神などの影響下にあります。従って、クリスチャンであっても、そうしたこの世の神などによって、文字どおり所有されないまでも、ある程度、それに近いところに行ってしまうということは、あることです。

旧約聖書にも、イスラエルの民が、神である主に頼らずに、その土地にはびこっているバールなどの神にすり寄っていき、主が忌み嫌う儀式や礼拝をしていたという記述が何度か書かれています。それに対して、主なる神は憤られると同時に、愛してもおられます。以下のみことばは、他の神々に行ってしまったイスラエルの民に対するものです。

「さあ、行って、主はこう仰せられると言って、エルサレムの人々の耳に呼ばわれ。わたしは、あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている。
イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罪に定められ、わざわいをこうむったものだ。――主の御告げ――」

(エレミヤ書2:2-3)

旧約の歴史書に書かれているイスラエルの民は、土着の神を崇拝している時期には、何らかの災いが起こって、悔い改めをし、改めてモーセによって書かれた書を読み返して、神の命令に立ち戻る、ということを何度も繰り返しています。
そうした土着の神のところに行っているイスラエルの民は、その神の霊によって保有されている状況です。自分の民が、よそ者の神の所有物になっているわけですから、神であられる主としては、大変に残念なことでしょう。

そうしたことを何度か繰り返して、イスラエルの民はエルサレムからバビロニアへと強制移住させられる憂き目に遭うことになります。



主イエス・キリストを信じ、それを告白した者は、天の父と主イエスと聖霊から成る神の所有物です。

だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。
(イザヤ43:1)

聖書の文脈でよく言われる「贖われた(あがなわれた)」とは、代価を支払って買い取られたということであり、買い取った方は、父なる神です。代価は傷も汚れもない尊い小羊のようなイエスです。主イエス・キリストにあって、父なる神の所有の民となった訳です。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

(第一コリント6:19-20)

従って、新約聖書に書かれている祈り方によって祈るなら、神は必ず何かをおっしゃって下さいます。応答して下さいます。御子である主イエスを十字架にかけてまで、私たちをこの世の神の圧制から救い出そうとなさった父なる神が、どうして、私たちの祈りに答えて下さらない訳があるでしょうか?

祈りによって、神から答えをいただく。あるいは、神からの声を聞くということは、そのやり方を教えている教会と教えていない教会とがあり、後者が大多数であることは、おおむね承知しています。これには教会発展史が大きく影響しており、パウロがいた頃の初代教会では普通に行われていたことが、その後に途絶えてしまったということがあります。

使徒の働きやパウロ書簡の中に記されている当時の教会のあり方、集会の仕方などを読むと、現代の教会のあり方、礼拝の仕方とかなり異なります。これは教会が発展する歴史において、西欧や南米やアジアにおいて大きく展開したカトリックの中で、個々の信徒が聖書のみことば(特にパウロ書簡)に基づいて祈る中で、神から直接答えをもらうということが教えられなくなり、それがルター以降のプロテスタント教会にも受け継がれ、現代に至っているからだと解釈しています。近年に至って、ペンテコステ系の教会などにおいて、聖霊との関係づくりへの取り組みがなされており、聖霊が介在する形で、神との応答に慣れていく、ということが実践されています。要は、聖書に書かれている通りに行ってみると、できることなのです。教えられていないのは、教職者を養成する神学校などで教えられていないから。その発端はルターの時代の教職者養成プログラム。そのお手本はカトリックの時代の教職者と信徒のあり方。ということで、カトリックの頃まで遡ります。初代教会のよいあり方が、2世紀頃に途絶えてしまったという経緯がある。そのように解釈しています。

このような歴史的な背景があるため、現在は、祈りの中で神から直接答えをいただくということが、多くの教会では教えられていない、残念ながら…。そういう状況では、「祈っている最中に、神様が答えて下さったんだ!神様は、こうおっしゃっていたよ!」ということが、大っぴらには言いにくい雰囲気がある。「神様がお前に語ることがある訳ないじゃないか(°O゜)☆\(^^;) バキ!」と言われてしまう…。それを恐る雰囲気が、いわく言いがたい空気のようなものとして存在している…。そういう状況があるように思います。

要は、パウロが活躍していた頃の初代教会では、普通に取り組まれていたことが、歴史上のある時期から取り組まれなくなった。辿っていくと、上に記したような構図があるということです。(私がこういう図式を発見したのは、マルコ最終章で明確に記されている悪霊の追い出しに関して、なぜ多くの教会では取り組まれていないのか、ネットで得られる英語文献を色々と辿って行って、ルター時代の状況の移り変わりをよく説明してある文献に行き当たったという経緯からです)

新約聖書に書かれているみことばに素直に従って祈ってみると、なんだ、主は生き生きと答えて下さるではないか!という発見が、あるはずです。
要は、聖書のみことばに基づいてトライしてみる。そうすると、求める者には与えて下さる神ですから、与えて下さる(ルカ11:11)。そういう、ひどく単純なことです。



人間は、本来は、お造りになった神のものです。
アダムを創造なさった時の、神の喜びはどれほどすばらしいものであったことでしょう!
それを、蛇として現れたサタンが横取りしたのです。
そうして、サタンの所有物となった一人ひとりの地の上の人を買い戻すために、天の父の愛する息子がこの地の上に送られ、十字架に架けられた。それはイザヤ書53章などで預言されている通りに。すなわち、神の元々からのご計画に従って。
そうして、イエス・キリストを信じる人が、その信仰によって、諸々のがんじがらめから解放されるようにして下さった。つまり、本来、神のものであった人間が、御子イエスの十字架によって、再び、神のものとなった訳です。

従って、主イエス・キリストにある人は、「私が幸せになるためには、どうすればいいか?」と考える時に、「神は、私の状況をどのようにご覧になっているだろうか?」と目線を切り替えて発想することができます。
自分が苦しい時に、「神は、私の苦しみを、どのようにご覧になっているだろうか?みこころは、どのようなものだろうか?」と発想することができます。
そうして、答えを、聖書のみことばからもらう。あるいは、祈る中で、神から直接答えてもらう。それができます。

祈りの中で、神から答えをいただくということについて、誰もが取り組みやすいのが、聖霊から答えをいただくということです。慣れが必要ですし、コツがわかるまで、何度でもトライする必要があるでしょうけれども、自分の内にいらっしゃる聖霊は、必ず、答えて下さいます。

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
(ヨハネ16:13)

また、聖霊がお告げになったことに基づいて、使徒たちが行動したということが、使徒の働きには多く書かれています。それも参考になります。

何かのピンチになって、どうにもこうにも神の助けを求めざるを得ない、という時に、「聖霊様、助けて下さい」と小さく声に出して言うと、さっと状況が変化します。これは何度となく経験しました。

そのように聖霊の助けを経験して行きながら、「聖霊様、これこれのことを、お教え下さい」と尋ねると、さっと、小さな声で答えを下さることがあります。聖書のわからないことを、まず、尋ねてみるのがよいでしょう。それを何度か繰り返して、「これが聖霊様の声か」「これが聖霊様の答え方なのか」というコツがわかるようになると、色々なことを色々な時に教えていただく、ということができるようになると思います。

聖霊は、主イエス・キリストに結び付いている、天の父が送って下さった御霊ですから、必ず、聖書の言葉に合致したことを教えて下さいます。信徒が、聖書の言葉に基づいて行動しようという時に、助けて下さいます。また、信徒が、聖書の言葉に基づいて行動できるように、何かを教えて下さいます。

まず、そこから始めるとよいのではないでしょうか。

主イエスのみことばをすべて守り、主イエスに身を捧げ、キリストの死にあずかるバプテスマを受けるようになるあたりから、主イエスが直接答えて下さる、ということも経験できるようになると思います。

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。
(ヨハネ14:21)

「これこれのことをイエス様から教えてもらったよ!」と言うと、「えっ!なんで?お前が!」という雰囲気が、多くの場所では、あるようですが、聖書のみことばに上のように書いてあることですから、それに素直に従えば、あることなのです。それが信仰というものです。



冒頭の瞑想に取り組んでいた女性の方に話を戻すと、気になった時に、次のように祈って上げるのが、まずは良いことなのだと思います。

「天のお父様、どうか、主イエスの十字架により、あの方があがなわれ、異教の神から解放され、救われ、悔い改めに導かれますように。主イエスの名によって、執り成してお祈りします。」