日曜投稿:異教だらけの日本で | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Syoko Matsumura

 

 

ポーランド出身で長らくカナダに在住し、Promised Land Ministriesという教会を運営しているジョセフ・ジャシンスキという牧師が10月20日頃に来日します。同牧師は悪霊の追い出しや霊的な戦いの大家であり、世界各地を回って、牧師を対象に数日間のプログラムで悪霊の追い出しの技法(祈り方)や霊的な戦いの技法を伝授しています。10月23日水曜日に東京で時間が取れるそうなので、何かの集会ができるかも知れません。

今回日本にいらっしゃるのは、彼いわく、「日本に行けと、主から、言われた」とのことです。前回2017年は彼の初来日でしたが、この時も、偶然日本に行くための航空券が用意され、何の予定も立てずに日本にいらっしゃいました。私はたまたま米国在住の日本人クリスチャンから彼の日本滞在のことを知らされ、英語ができてアテンドできる人が周囲にいなかったことから、なし崩し的にアテンドを引き受ける格好になり、約10日間の滞在の間、ほぼ毎日彼と一緒にいました。

彼の念頭にあるのは、日本において、聖書の文脈で言う「敵の霊」について、祈りによって対処するということのようです。



日本で生まれて育つと、神社や仏閣が日本の至るところにあり、それらがどこにでも存在していることが、ごく当たり前だという感覚を持って成人します。しかしこれは聖書の文脈からするなら、旧約聖書のたくさんの箇所で書かれている「偶像」、「主の忌み嫌うもの」、「高きところ」であり、聖であられる主が近づくことのできない環境です。

こういうところで暮らし続けていると、何が聖であり、何が聖でないか、ということも、よくわからないです。

聖書の神は、ことに偶像を忌み嫌う神であり、偶像を礼拝する家長(父)には、その子から始まって三代四代先まで父の咎の報いを及ぼすとおっしゃっています。

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

(出エジプト記20:2-6)

これはなぜかと言うと、そもそものイスラエルの民は、奴隷の状況にあったものを、出エジプト記に描かれているような劇的な奇跡によってエジプトの地から導き出され、自由を与えられた。そういう恵みを忘れてはならない。そのこともあります。しかし、もっと重要な点があります。

偶像の背後にあるのは、聖書の神の正反対、つまり、霊として存在しているサタン(悪魔)です。すべての偶像にはサタンないしその下位の悪霊が働いています。それらの敵の霊が人を導いていくのは、どのような道筋をたどっても「死」なのです。色んな意味で死んでしまいます。私も経験しました。偶像にひざまづくことによって、そうした「死」に引きずり込まれることがないように、「偶像を礼拝するな」と命じているのです。

世界各地の「神々」と呼ばれるものは、聖書の文脈では、天から落とされた御使い、いわゆる堕天使であり、すなわちサタンです(御使いも霊であり目には見えません。堕天使=サタンも霊であり目には見えません)。霊的な戦いの指導者として有名なダン・デュバルのミニストリーのサイトに行くと、そうした世界各地の神々のリストがあり、その膨大な数に驚きます。日本のイザナギの名も見えます。

Extended List of Evil Heavenly Powers/Principalities


このリストにあるのが、一つひとつの堕天使のその地域における名です。すべてを網羅しているわけではないでしょうが(日本のものなど)、それでもかなりの数です。ルシファーが天から追放された時、確か、1/3の御使いを引き連れて地に落ちたと言われていますから(黙示録12:4に基づくと思われる)、その数は、数千万になるのではないかと思われます。(黙示録5:11「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった」による)

パウロ書簡では、この敵の霊は、霊的な戦いの対象として「主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊」と記されています。

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

(エペソ6:10-12)

ダン・デュバルのリストの名称にある"Powers"、"Principalities"とは、「力」「主権」と訳されている言葉です。
そうしたものが、目に見えない霊として、この地の上で、あるいは、いわゆる第二の天で、働いています。

こうしたものの1つが、その地域の1つの偶像となって、人々を惹き付け、何かを捧げるようにし、ひざまずくようにさせるのです。天の父と御子イエスから見たら、きわめて忌まわしいことです。また、聖霊は嘆き悲しみます。

人々が、こうした敵の霊の支配下に入ることによって、色んな意味での「死」の中に入っていくので、偶像礼拝がきつく戒められている訳です。生かすのは主イエス・キリストです。その反対がこれら敵の霊がもたらすものです。

その死とは、肉体の死だけでなく、社会的な死、経済的な死に加えて、主イエス・キリストを信じる者に約束されている「永遠の命」の「対極にある死」。すなわち、地獄の業火の中に永遠にとどめ置かれるということです。それは「永遠の死」という言葉で表されるような「消えてなくなること」ではなくて、「永遠に責め苦の中で生き続けなければならない、終わることのない業苦」です。
聖書では「火の池」とも書かれていますし、「火と硫黄の燃える池」とも書かれています。そういうところに、永遠に入ることになります。恐ろしいことです。

地獄については、2本の投稿で書きましたから、こちらをご覧下さい。どういう場合に地獄に行くと聖書に書かれているのか、簡潔にまとめています。

自らの被造物である「人」が、そういうところへ行くことを止めなければならない、そういう愛が根底にあって、「偶像を拝んではならない」と命じているのです。

偶像崇拝が厳しく戒められているのは、人に対する神の愛があるからなのです。

天の父、御子イエス、聖霊の三つにして一つなる神以外の「神ならざるもの」を崇拝している人は、人生のどこかで悔い改めて路線変更をしない限り、永遠の地獄に行ってしまう可能性がきわめて高いです。裁きを行うのは主イエス・キリストであり、人がその裁きに先走って特定の人を裁いてはいけないとも書かれています。なので、最後的にどうなるかは、私はわかりません。しかし、聖書にこう書いている、これが真理だよ、と言うことはできます。むしろそう言いなさいと、福音伝道の命令の中でおっしゃっているのが主イエスです。

聖書の神以外を崇拝すると言うことには、何かを念じる、何かの呪文のようなものを唱える、何かのパワーにすがる、何かのパワーを使うといったことも含まれます。すべてのスピリチュアリズム、すべての占い、すべての魔術の類、呪いの術の類、それらもすべて、聖書の文脈では、偶像崇拝に入ります。

意外かも知れませんが、神道の祝詞(のりと)、仏教のお経なども、まったく同じ範疇です。日本では、空気のように当たり前のものとして捉えられている祝詞やお経などは、聖書の文脈では、偶像崇拝の範疇に入ります。そうしたものを行なっている人は、この世の命があるうちに、主イエス・キリストを心から受け入れて悔い改めることによって、永遠の地獄に行くことを免れると思います。聖書が真理であるならば、そうです。そうして、聖書が真理であることは、神ご自身が証しします。



キリスト教の伝統を持った国から日本に来てみると、その神社仏閣の多さ、通りの至るところにある祠(ほこら)の多さに、まず驚くそうです。これは、聖書的な信仰を持ち、そういう生活を送っている人が、日本に来てみると、ということです。私は今年の1月末に日本に帰ってきて、それ以来、浅草のシェアハウスで暮らしていますが、この界隈もお寺が大変に多いです。本所あたりは昔からお寺が多かった地域だと思います。なので、祈っています。

また、そもそもの江戸という都が、仏教や陰陽道のやり方による霊的な要塞として築かれたという事実があるようです。風水で重要な方角に、拠点となる神社仏閣を設け、いわゆる結界を張り巡らし、これらに敵するものから守られるように作ったということが、インターネットで得られる建築専門家の文書などから明らかになります。京都もそのようにして構築された霊的な空間だという説もあります。

東京や京都に限らず、日本に古くからある都市では、多かれ少なかれ、こうした寺社仏閣が多く、その空間をそうしたものが面として覆っている様子があります。

そうして、それらのものの根底に、目に見えない部分に、上述のような天から落とされた御使い、何らかの名前を持ったサタンが働いているわけです。



こうしたものに対して、主イエス・キリストを信じるものは、祈りによって対処します。
パウロがエペソ書で書いているように、私たちの格闘は、目に見える血肉(人間および人間が作り上げた物理的な存在)に対するものではなく、目に見えないサタンやその配下の悪霊に対するものです。従って、聖書的なやり方で、そうしたものに対して、主イエス・キリストが私たちに与えて下さった権威を行使して、みことばにより、信仰により、祈りによって対処していかなければなりません。

実に、主イエスは、以下のようにおっしゃって下さって、どのような霊の戦いの祈りにおいても、必ず勝利するということを確約して下さっています。

確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
(ルカ10:19)

霊的な戦いの根拠となる聖句、敵に対する言葉の発し方などについては、この投稿では詳しく書きませんが、すべては聖書に書かれているので、少し調べるだけでも、多くのことが理解できます。

また、共通の知人がいるこの方のブログの投稿も大変に参考になります。

異言の祈り〜霊的戦いに於ける攻撃のための武器〜


また、霊的な戦いについて教え、実践をしているダン・デュバルのこの動画の中身も大変に参考になります。

一つ言えるのは、おびただしくいるサタンもその配下の悪霊たちも、旧約聖書で天地万物を創造なさった神の世界の中にあり、聖書の枠組みの中にあるということです。従って「聖書にこう書いてある」と迫っていくなら、サタン・悪霊はその命令に従わざるを得ません。イエス様が四十日の断食の後でサタンに対処した、みことばによる撃退。これがすべてです。聖書に書いてある言葉をベースにして「聖書にこう書いてあるから、お前たちはこう動かなければならない」、あるいは「聖書にこう書いてあるから、お前たちにこう対処する」と、聖書の根拠聖句をベースにして、しっかりとした信仰を育んで、敵の霊に対処します。

聖書のみことば以外のところからサタン・悪霊に対処する「技法」なり何なりを持ち込もうとすると、それは、早晩、敵からやられてしまうきっかけとなります。なぜなら、彼らも、聖書に書いてあることの理解に長けており、私たちが聖書に書いていないやり方を取ろうとするならば、すぐさま、揚げ足を取るからです。使徒の働きのスケワの息子たちのエピソードが、その一端を物語っています。



また、大切なのは、目に見える神社仏閣が問題なのではなく、その背後に働いている、目に見えない敵の霊であるサタンや悪霊が問題だということです。それに対して、聖書に書かれているやり方で、みことばによって、祈りによって、宣言によって対処することが必要だということです。

根拠聖句があり、それを心から信じており、それに基づいて、敵の霊に対して何かを言うなら、それも、イエスの名によってそれを言うなら、敵はその言った通りになります。

先日参加した超教派の集会で、全国各地域の教会の牧師が集まって、それぞれの地域について、主イエスの統治が確立するように祈った時に、少なからぬ数の牧師が、その地域における神社仏閣の存在感が大きなことを指摘し、その背後に働いているサタン・悪霊を縛る宣言を祈りの中に含めていました。

なおこれは、繰り返しますが、物理的に目に見える神社仏閣を問題にしているのではなく、その背後で働いている目に見えない霊的な存在としてのサタン・悪霊を縛る、それも聖書に書かれているみことばを根拠として、主イエスの名によって、宣言する、あるいは祈る、ということです。パウロがエペソ6章で書いている「私たちの格闘は血肉に対するものではなく…」とは、そういうことです。

こういう祈りの姿勢は大切です。



そうした文脈で日本を見ていく時、日本に置かれた一人ひとりのクリスチャンは少数派であり、神社仏閣だけでなく、この世的な価値観やスピリチュアリズムによって出来上がった多くのものに取り囲まれています。日曜日に教会に行けば、多くの兄弟姉妹と交流できますが、それ以外の日は、イエス・キリストを信じていない人、否定している人に取り囲まれて生きています。一人ひとりの信徒は、外側の状況を見るならば、孤立しています。

こういう状況を、天の父は、どのようにご覧になっているのか?
一度、祈りの中で、聞いてみたことがあります。

アブラハムが七十五歳でイスラエルの神を信じた時にも、彼はひとりであった、とのことです。そのひとりのアブラハムから、数え切れない子孫が生まれ、主イエス・キリストを介して、アブラハムの子孫は血のつながっていない異邦人にも及び、お約束のように、星の数ほどにも増えました。神は、その気になれば、ひとりのアブラハムから無数の星の数ほどの子孫も起こせる神なのだとのことです。


従って、ある時、ある場所において、イエス・キリストを信じる人がひとりで生きていたとしても、その信じる人がひとりいれば、そこから神は無数の信徒を起こすことができる存在です。いつそのことが起こるか。どこでそのことが起こるか。それは、人間が決められることではありません。神にはそのような力があるという信仰を持つことが、まず私たちが取り組むべきことでしょう。

また、昨日上げた投稿に書いたように、私たちは、神の霊が宿る神の神殿であります。
従って、目に見える所にはいかに神社仏閣が多くあろうとも、私たちの内には、聖霊がおり、主イエスもいて、天の父も来て下さいます。そのことは、昨日の投稿に根拠聖句を挙げて説明しました。

なので、天の父から見れば、日本の各所に、神の神殿である主イエスを信じる信徒がいて、それぞれにおいて、祈りや礼拝が捧げられているということになります。クリスチャンの数が問題なのではなく、神の神殿として、霊とまことの礼拝が捧げられている実体がそこにあることが重要です。

外面的には孤立しているように見えるクリスチャンも、いずれは、霊的なイスラエルとして、主イエスを頭としていただくひとつの教会として、集められます。世界からおびただしい数のクリスチャンが、霊的なイスラエルとして、みこころに従って集められます。(こちらの投稿で書きました)

この霊的なイスラエルが失われることはありません。そうして、一人ひとりは神の神殿です。
従って、目に見える神社仏閣がいかに多くとも、霊の側面の聖書的な真実に目を向けるなら、そこには、神のみこころが生き生きと働いています。主イエスが執り成して下さっています。

 

神のご計画は、私たちの思うところをはるかに超えた領域で、着々と進展しているのです。

ハレルヤ!