みことばメモ イザヤ書53:10 しかし彼を砕いて痛めることは | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

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1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

イザヤ書 53章10節

 

私たちは、生まれてからずっと、この世の言葉を聞き続けて育ってきているので、神の言葉に耳を傾ける方法を理解していません。(私も最近このことがわかりました)、

神の言葉を理解することは、小中高で教わる国語における文章解釈のようなものとは異なります。イエス様が、「私が話している言葉は霊であり、いのちです」とおっしゃっているように(ヨハネ6:63)、霊であり、いのちであるものを、丁寧に聞き取っていく作業が必要です。

 

また、神の言葉は、信仰と密接に結びついています。神の言葉は、神がおっしゃった時には人間から独立して存在していますが、人間が信仰をもって受け取る時に初めて、その人のいのちに関わる神の言葉となります(ヘブル4:4)。

 

上で引用したイザヤ53章は、一般的には、イエス様の受難を預言したものとして知られています。これは、よく読めば、まさしくそうです。イエス様が鞭打たれ、唾を吐きかけられ、重い十字架を背負わされて坂道をよろけながら歩き、手と足を太い釘で打ち抜かれて十字架につけられ、高く掲げられて長い時間、苦しみを忍ばれた。その様がありありと描かれています。

 

このようなイエス様の死。このことが、私たちとも無縁ではないことが、新約聖書のパウロ書簡の多くの箇所に書かれています。

 

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。(ローマ6:6)

 

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)

 

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。(ガラテヤ5:24)

 

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。(ガラテヤ6:14)

 

パウロは「古い人」「自分の肉」が「キリストとともに十字架につけられた」と言っています。これは、罪から解放された新しい人が、御霊によって新しい歩みをするためです。それも長期間にわたる修行の後に獲得される状態ではなく、信仰により、恵みによっていただける神からの贈り物です。御子イエスを犠牲にすることを良しとされた、天の父の愛の現れです。

 

自分が神の言葉の外で歩んできたことの罪は、人生の期間のほぼすべてに及んでおり、悔い改めるべこことは多々あります。その罪から完全に解放され、新しい人として御霊によって歩み、天の父と御子イエスの愛の交わりの中に招き入れられるためには、やはり、古い人が死ななければなりません。このことが、なかなかわからないのです。私の過去を振り返ってみても、このことが、なかなかわからない。

教科としての国語の文章解釈ような理解は可能です。しかし、これらのみことばも霊であり、いのちであるので、そのように理解しなければ、腹の底からわかったということになりません。

 

パウロは、古い人がキリストとともに十字架につけられて死ぬこと、それに引き続いて、新しい人がキリストともによみがえって御霊の人として歩むようになることを、「キリストの死にあずかるバプテスマ」と表現しています。

 

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちは皆、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。(ローマ6:3)

 

こうしたことを霊として理解するには、御霊によって導かれることが必要です。神の言葉の霊としての特性は、聖霊の助けをいただくことで、初めて理解できます(ヨハネ16:13)。

 

霊として理解するには、過去2か月間の投稿で度々書いてきているように、神の言葉を毎日口ずさむ行程が不可欠です。私もこのことがようやくとわかりました。詩篇1編やヨシュア記1章に書かれている、神の教えを朝昼口ずさみ続ける行為は、非常に深い意味があります。最低でも21日間続けること。関連投稿に米国の脳科学者の証言の動画があり、そこに理由が示されています。

 

そのようにして、みことばで自分を洗っていくと、この世の言葉を聞かされ続けて育ってきた私たちの理性、価値基準、心の中の多くの部分が、霊としての神の言葉を素直に聞けるようになり、素直な信仰が芽生えてきます。

 

冒頭に引用したイザヤ53章のみことば。これは、イエスの受難を預言したものであります。一方で、神の言葉は、色々な時に、色々な人において、特殊な、具体的な意味を持つことがあります。これは、イエス・キリストについて預言したみことばであると同時に、自分に具体的に働きかけてくるみことばでもある、ということがあり得ます。

 

つまり、神のみこころとしては、自分が砕かれること、自分が痛められること。これが必要である。今の自分には。そういうことがあり得ます。

 

パウロの言うキリストの死にあずかるバプテスマ。それを受けるために、神のみこころとしては、自分が砕かれなければならない、自分が痛められなければならない。それが今必要である。そういうことがあり得ます。

自分が砕かれて、傷められて、キリストともに十字架につけられて、古い人が完全に死ぬ。

そうして、新しい人が、キリストともによみがえって、御霊によって歩む人となる。もう肉によっては歩まない。全く新しい人になる。

 

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(コリント第二5:17)

 

そこに至るために、イザヤ53:10が必要である。それが神のみこころである。

そういうことが、みことばを口ずさむことを毎日続けている中で、霊としてわかってくるのです。