日曜投稿:イエスがこの世の神の束縛から解放して下さったこと | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

 

パウロがエペソ書で「私たちの格闘は血肉に対するものではなく」と書いている格闘。この格闘は、霊的な戦いと呼ばれることもあります。

「血肉」とは、人間のこと。私たちの格闘は人間に対するものではない、という意味は、私たちの格闘は、主イエス・キリストに抗う(あらがう)霊に対するものであるということです。主イエス・キリストに抗う霊とは、サタンと呼ばれたり、悪魔と呼ばれたりします。また、その下には悪霊という手下を従えています。

聖書の全体の展開が理解できるようになると、聖書で書かれている大きなドラマは、次ような枠組みであることがハッキリと見えてきます。

すなわち、
1) 創造された人間が、一度はサタンに騙されて奴隷のような状態に陥ったものの、
2) 御子であるイエス・キリストが十字架にかかって下さり、よみがえって、サタンがもたらしたすべてのものに圧倒的な勝利をして下さった
3) 十字架にかかり、よみがえった御子イエスが「主」であると信じる者は、サタンがもたらしたすべての束縛(死を含む)から自由になることができる
4) 主イエスを信じる人間は、主イエスとともに霊的な戦いを戦って、神の国を主イエスとともに受け継ぐ
というものです。

御子イエスとサタンの戦いであると同時に、御子イエスが主であると信じる人々とサタンに対する戦いも繰り広げられているのです。これが、パウロの書く「私たちの格闘は血肉に対するものではなく…」です。



この血肉ではないものに対する戦い、サタンやその手下の悪霊に対する戦いを、聖書のみことばに基づいて、少しでも戦ってみると、実に多くの人たちが、サタンや悪霊にさいなまれていることが見えてきます。

このブログでは、日本の社会で大きな影響をふるっている悪霊として、「集団支配を行い、それに従わない者を村八分にする霊」という仮称で呼ぶものがあるのではないか、という仮説を何度か書いてきています。

デリック・プリンスによる「強い人」の解説

祈りがかなえられないこと(1) - 上からくる邪魔 (この投稿の後半)

日本でもっとも強力な悪霊 - 集団支配をして村八分にする悪霊

「集団支配と村八分の霊」はどうやって肥大化していったか?


この悪霊の影響の特徴は、集団主義です。日本が第二次世界大戦に突入していった経緯にこの集団的な悪霊の特徴がよく表れています。一人の意思決定者がいるわけではないのに、あたかも「空気」がその方向へ物事を推し進め、関係者全員がその考えを持って、それに突き進んでいきます。
これは悪霊のなせるわざ以外の何物でもありません。そして、多くのものが破壊され、殺され、分断され、喪失します。

現在の日本の多くの企業にも、同じ影響力が働いているように思います。集団的な思考や集団的な行動があり、それに合致している社員はよいものの、合致できない社員は村八分の状況に陥ってしまう。最悪の場合、集団における居場所がなくなって、大変に痛ましい出来事が起こる場合もある。

企業組織の人的なパワーバランスの課題はどの国の企業にもあるものですが、私が経験した米国系の大手企業では、日本企業に見られる集団的な思考とそこからはずれた人を村八分にする目に見えないメカニズムはありませんでした。まず、日本固有のものと考えてよいでしょう。

ひきこもりもまた、日本の社会の色々な場で影響力を振るっている集団支配と村八分の霊…。その支配下に入れない人や、その中に入ることを拒む人の課題であると考えています。私自身にも同じ性向があり、同じ問題で悩んだ時期がありますから、なおよくわかります。

ひきこもりになるほとんどの人は、悪霊として目に見えない形で猛威を振るっているその集団(会社、学校、地域社会)の中に入ることを本能的に拒絶し、それがために、その集団から得られるメリットを拒否されている状態にある、と解釈できます。
簡単に言えば、この悪霊が影響力を振るっている集団・領域では、この悪霊に頭を下げてその軍門に下らないと、集団の中での恩恵が受けられないのです。(なお、すべてがすべて、そうだと言っているわけではないことにご注意下さい。理解していただきやすいように、かなり単純化して書いています。また、程度が軽いものから程度が思いものまで、様々なバリエーションがあります)

元々が純粋であり、元々が嘘をつけない性格の人や、本能的に虚偽を見抜いてしまう人などは、この悪霊が働いているところには、入っていけないです。結果として、集団の中での居場所が見いだせずに、結果としてひきこもりになる、という経緯があると考えています。

私は、こういう方々は、むしろ、イエス・キリストが源泉である神の言葉を聞くことができる方々なのではないかと思います。神の言葉を聞くということについては、過去2週間、色々な投稿を書いてきていますから、お読みになってみて下さい。



サタンが設定したすべての束縛。サタンの下にいる悪霊からくる束縛。そうしたものから、完全に解放してくれるのが、イエス・キリストという神です。

 

これは、御子イエスが、十字架にかかって自分自身を犠牲としてお捧げになって下さった、その命をかけた愛によって可能になっています。また、この行為には、御子イエスが、天の父の言葉(=みこころ)に、命をかけて従ったという意味もあります。御子イエスは、言葉の神でもあられます。従って、その言葉には、力があるのです。

神は、神の言葉によって、人を解放します。神の言葉に、神が働かれます。

神の言葉は、聖書に書かれています。

神の言葉は、信仰を生じさせます。

信仰があると、神に願ったそのことがかなえられます。

神に不可能なことはひとつもありません。

聖書は、マニュアルではありませんから、ひたむきな姿勢で、神がおっしゃっていることに耳を澄ます気構えで、その語っているものを聞き取っていくことが大切です。

イエス・キリストの下に来ると、まず、癒しがあります。そうして、神の平安が与えられます。
安心があり、救われたという実感があります。
喜びが湧き、希望が満ちてきます。
そうして、主イエスと一緒に、サタンや悪霊と戦うことができるようになります。
何によって戦うのか?聖書の中にある神の言葉によって戦うのです。

イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。
(マタイの福音書10:1)

確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
(ルカの福音書10:19)