これをお読み下さる方に、主の平安がありますように。
この世の諸々のものから、イエス・キリストによって自由になることを、「解放」という言葉で呼んでいます。
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」
ルカの福音書 4章18~19節
上の二節は、イエス・キリストが公の活動をする直前に、ユダヤ人の集会の際に聖書のこの箇所を開いて読み、周囲の人に宣言した格好になったところです。
たまたま開いたら、聖書(イザヤ書)のここの部分が出てきたので、イエスはここを読み上げました。
そうして、ここに書いてあるのは、自分のことだよ、今ここに書いてあることが現実のものになったんだよ、という意味で、以下のように言われました。
イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
ルカの福音書 4章21節
しいたげられている人を自由にするために、私は来たのだと宣言したのです。
◎
イエス・キリストは、人を自由にする神です。
この世では、ほとんどすべての人が、何らかの苦しみを抱えています。
人間関係や家族関係のしがらみ、孤独、仕事・進路の不安、お金の問題、世間体、自傷行為、何らかの中毒、不眠、自殺の考えなどなど。
こうしたものは、聖書の枠組みの中では、サタン・悪魔(=創世記の蛇)によって地の上にもたらされたものだと説明しています。創世記の初めの方に書いてあります。
それがもたらされる前の状態は、神と人との間に隔てがなく、人はひたすら祝福の中にあり、神が言葉をかけると、人がすぐに答えるという関係にありました。
人は、神の創造の内にあり、本当の自由を持っていました。
以下の創世記3章の記述は、サタン・悪魔によって騙された後の状況です。
そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
創世記 3章8~10節
これから類推すると、
1)神は、人とコミュニケーションするのを楽しんでおられた
2)しかし、サタン・悪魔に騙されてしまった人は、神に対しておびえるようになった、
と解釈できます。
自分を造って下さった方の「御顔を避けた」というほどですから、よほど後ろめたく、よほどおびえていたのでしょう。
こうした不安、おびえは、元々は、神の創造物の中にはなかったものです。
サタン・悪魔がもたらしたのです。
また、それだけでなく、人が死ぬことを初めとして、ありとあらゆる悪、苦しみが、地の上にもたらされました。聖書ではそのように捉えています。
上に書いた「人間関係や家族関係のしがらみ、孤独、仕事・進路の不安、お金の問題、世間体、自傷行為、何らかの中毒、不眠、自殺の考えなどなど」も、結局のところは、サタン・悪魔がこの世にはびこらせているものです。
「神の言葉に聞いて従う」という、人間の基本がしっかりとできていると、これらから自由に生きていけます。
聖書は、神の言葉です。
◎
サタン・悪魔が壊した神と人との関係を修復するために、地の上に遣わされたのが、神のひとり子であるイエスです。
聖書では、3つの神が出てきます。
天の父と、御子イエスと、聖霊です。この3つは、ひとつの神の3つの位格です。
天の父と御子イエスの関係は、ヨハネの福音書に詳しく描かれています。特に後半です。父が何をお考えになっており、子がどう受け止められたかが記されています。
創世記の冒頭には、天の父が、言葉により、万物を創造したことが記されています。実はこの時に、御子イエスも創造に立ち会っていました。言葉として。
神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
創世記 1章3~4節
この御子イエスが、地上の人間の苦しみがあまりにひどいので、父親から言われて、地上に降りてきました(その誕生のお祝いがクリスマスです)。父の御心を行うために。
イエスは、その活動の終盤で、弟子の足を洗うということをしています。神の子なのに、人の汚れた足を洗って、「こういうことをしないと、自分とあなたとは、何の関係もない」という意味のことをおっしゃっています。(ヨハネの福音書13章)
人の罪を赦し、人の病を癒し、人から悪霊を追い出し、どうすれば自由になれるかを説いて歩きました。大変な状況にある女性にも思いやりが深かったです。
◎
十字架に付けるという死刑の方法は、当時のユダヤ地方を支配していたローマ帝国の究極の刑罰でした。
生身の人間の手と足に、極太のくぎを打ち付け、それで体の重みを支えるようにして、十字架にはりつけ、高いところに晒します。
そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。
そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。
それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。
彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。
道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。
十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
マルコの福音書 15章29~30節
神の子どもであるイエスが、なぜ、このような十字架に付けられる必要があったのか?
当時のユダヤ社会のユダヤ教の「いけにえ 」の考え方と、「過ぎ越し」というユダヤ人にとって極めて重要な記念行事の中身を知ることで、この意味がはっきりとしてきます。非常に象徴的な、いくつもの意味が重なり合った行為が、神の子イエスが十字架に付けられるということです。
そしてこの十字架に、すべての人のすべてのマイナスのものを引き受けて、帳消しにするという意味合いもありました。
マイナスのものとは、上に書いたこの世の苦しみ、人に覆いかぶさる罪悪、目に見えない形で人を縛り付けているものなど。すべてサタン・悪魔がもたらしたものです。それら一切合切を、神の子があえて引き受けて、究極の死刑を受けて、死んで、リセットして下さったのです。
これを「あがない」という言葉で表現します。あがないとは、コストを支払った、という意味です。人の諸々のネガティブなもののために、身代わりとなってコストを支払ってくれたのです。
この一連の御子イエスが受けた苦しみの過程は、新約聖書の四つの福音書の中に記されています。
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御子イエスは、天の父の言いつけを素直に守り、地の上に来て、十字架に付けられました。
神の子がいけにえになったのですから、これ以上のいけにえというのはあり得ません。究極のいけにえです。これにはサタン・悪魔もなすすべがありません。
そうして、天の父は、この十字架に付けられた御子イエスを、3日目によみがえらせました。死人が生き返ったのです。
創世記で、神が天地万物を創造し、最初の人間アダムを造った時には、死は存在しませんでした。
死は、サタン・悪魔にアダムが騙されたことによって、この地上にやってきました。
イエスのよみがえりは、サタンがもたらした死を、神の力によって、滅ぼしたという意味があります。
神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。
ヨハネの手紙 第一 3章8節b
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最初の人間アダムが創造された時、神と人との間には何の隔たりもなく、神は人と対話を楽しみ、人は喜びに満ちていました。
御子イエスが、十字架で死んで下さって、それを天の父がよみがえらせたことにより、サタンのしわざは、完全に打ち砕かれました。それによって、神と人との関係が回復されました。
御子イエスは、天の父が愛するひとり子です。この愛する御子を人が信じる時、そこに神のわざが現れます。
神と人との関係が回復して、神のすべての良いものが人に流れてきます。恵みとまことがあふれます。祝福があふれます。すべてのマイナスのものが洗い流されていきます。
神の言葉を聞いて、信じると、そこに神のわざが現れる、というのは、聖書全編を貫いている真理です。
イエスを信じると、天の父がイエスに託したすべてのものが、その人に現れます。解放が起こります。御子イエスの命が代価として支払われていますから。信じるだけで、救われるのです。神のわざが現れます。天の父の愛する御子が死んで下さったのですから。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
エペソ人への手紙 2章8節