なぜ、信じられないのか? | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル



なぜ、信じられないのか?

なぜ、聖書の神の言葉を、ストレートに心に入れられないのか?

なぜ、信仰が持てないのか?


私も、信仰という意味では、発展途上です。信じられない問題、不信仰の問題に、長く取り組んできています。


多くの場合は、信仰に、フタがかぶさっている状態にある。別な言い方をすれば、信仰に覆いがかぶさっている。もっと違う言い方をすれば、信仰を邪魔するものがある。


そういうことだと考えています。

それでつじつまが合う事例が多数あります。私においても、他のクリスチャンにおいても。また、ノンクリスチャンの人においても。



新約聖書では、信仰の邪魔をするものを、次のように説明しています。


その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

コリント人への手紙 第二 4章4節


イエス・キリストが説いている福音は、ストレートに読むと、途方もない力を持っています。山が動いて海に入ります。信じる者にはどんなことでもできます。


こうした信仰によるパワー(そこで神が動くから、神のパワーが現れるということです)は、この世の神であるサタン・悪魔にとっては、大変に都合の悪いことです。自分たちの領域がなくなってしまいます。


それを恐れて、予め、信仰が育まれないように、多種多様な邪魔を世の中に存在させているのです。

常識として。人の意見として。世間からの圧力として。



この信仰の邪魔は、神に取り除いてもらうしかないと考えます。人にはできないことが、神にはできます(マタイ19:26、マルコ10:27、ルカ18:27)。


天の父よ。

どうか、私にかぶさっている信仰の邪魔を取り除いてください。

イエス様のお名前によってお祈りします。


心から祈ると、天に届いて、天でとりなしておられるイエス様が動き、天の父が動かれて、その邪魔がなくなると信じています。