私は、信仰者の基本は、聞いて従うことだと思っています。モーセに十戒が示された後で、モーセはそれに聞き従うことを誓っています(出エジプト20:19)。
神の言葉に聞き従う。
検索のできる聖書で(新改訳第三版)「聞」と「従」という二文字の漢字で検索すると、実におびただしい数の箇所がヒットします。
アダムとエバが罪を犯したのも、神の言葉に聞き従わず、蛇の言葉に耳を傾けてしまったからでした(創世記3:17)。何に聞くかは、その人の運命に関わります。人に聞くか、神に聞くか。
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イエス・キリストの十字架とよみがえり、そして、イエスを信じる者が聖霊をいただいて以降、私たちは、聖霊の助けによって、祈りの中で、神に聞くことができます。私はそのことを信じていますし、祈りの中で何度も天の父が、御子イエスが、聖霊が、語る言葉をいただいています。こちらのブログの中で何度も書いてきました。
祈りの中で、主が語ることを、否定するクリスチャンや教会があることを知っています。そのような立場があることを否定はしません。私たちの一人ひとりはキリストの体を構成する器官であり、それぞれ役割が違うからです。
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神に「祈れ」と言われれば、それについて祈るべきだと思います。神に「行け」と言われれば、そこに行くべきだと思います。このことは、現代人的な理性では、論理的に理解し難いということは、重々承知しています。そんなのあり得ない、と聖書を元に論理的に否定するクリスチャンがいることも重々理解します。
しかし、神は、ある人にメッセージを与え、最初は、トレーニング的に小さな事で慣らし、それに聞いて従うようだと、だんだんと大きな課題に向き合うようにされる、ということは、よくあることだと思います。
聞いて従うことが基本です。聞いて従っていると、折々に神の促しがやってきます。
厳格な命令ではないと思います。「あなたが受け入れられるのならば、行いなさい」というような、愛のある促しのケースが多いのではないかと思います。
時には天の父からの「召し」であるかも知れません。時にはイエス様からの「さとし」であるかも知れません。時には聖霊からの「ささやき」であるかも知れません。
昨日今日のことでしたが、ある方から悪霊の追い出しのことを教えて欲しいと頼まれました。実はお一方に4週間のプログラムに基づいて、指導をさせていただいている関係で、余裕がないのでお断りをしました。そうしたら、本日の朝、祈っている中で、お受けしなさいと示されました。
この時の「言われ方」は、腹に落ちると表現するのが適切な「理解の仕方」でした。こういう形で伝えられることもあります。もちろんすぐに従いました。その方にはお詫びをして、お受けするようにしました。
明確に「声」として聞く時もあります。ひとつ前の投稿で記した、祈祷会の祈りの中で言われたことは、そのパターンです。
神に言われたら、従う、ということを繰り返していると、それが頻繁になっていきます。対象領域が小さなことから、対象領域が大きなことまで。言われることは様々です。
もちろん人間ですから、間違いは犯します。間違ったら、悔い改めて、関係各位にお詫びをして赦していただいて、前に進むしかありません。私は、神に聞いて従うことについて、トライアンドエラーはありだと思っています。モーセですら過ちを犯しました。エリヤも状況から逃げ続けたことがあります。ヨナも最初は逃げました。大預言者も最初は腰が引けています。
イエス様は人間であることを経験していますから、そうした弱さに同情できる方です。主は人間の反応に接して、笑うことすらあります(創世記18:15で、主は、たしかに笑っていると思います)。
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2017年12月末に、元和のキリシタン殉教に関係した事柄で、京都の方広寺をふた晩回った経緯は、比較的詳しくこちらのブログで書きました。
京都・元和キリシタン大殉教の前後にかけられたイエスの福音を覆う呪いを断ち切ったこと
ヨシュア記のエリコの要領を下敷きに、2日しかなかったので、最初の晩に6日分の6周を行い、2日目の晩に最終日として7周を回って、7周目に関連の呪いを断ち切る宣言を行いました。
この時も、それに至る脈絡があり、やれと促されたのでやったのです。当然、受ける前には、え?何で私が?という疑問、抵抗感、驚きはあります。しかし、最終的に、聞いて従う、というところに落ち着きました。
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ロンドンに居た時には、ドルイド教に淵源を持つ悪魔崇拝の牙城であるロンドン塔を回って、霊的に落とせと言われたので、7日間かけて祈りながら回って、落としました。このように2、3行で書くと、気が違ったのではないかと思われることは承知しています。本来なら、歴史的な背景や、自分がそれまで英国について、あるいは、ストーンヘンジに関連したドルイド教について把握していたこと、ロンドン滞在中に経験したことについて、何本かの投稿として書かないと、訳がわからないことですが、今はその余裕がないので、これに留めておきます。
さらりとメモ書きで記したものは、昨年12月に上げています。
この時も、自分としては、神に聞いて従ったのです。何で日本人の私が?という思いはあり、最初は抵抗しました。
お前しかやる人がいないからだ、と言われました。私がある意味で馬鹿正直だからでしょう。