数日前に、自分のある深刻な事柄について気づき、悔い改めの祈りをしていました。私の場合、悔い改めるべき内容をいったん口で言って、その後で霊の祈り(異言による祈り)を長くします。

 

祈っていると、自分の足元が開いて、地の底で苦しんでいる多くの人たちが見えたように思いました。ああこれが地獄なのかと思いました。罪を犯したまま死ぬと、あそこにいくのだと。

 

聖霊の助けを得て霊によって祈っていると、時々、天が開けて、神の右の座にいてとりなしていて下さる御子イエスが見えることがあります。

この時はその逆で、地が開いて、地獄が見えたのでした。そこにいる人たちは、手を伸ばして、叫び、苦しんでいるようでした。リアルにはっきり見えたというのではなく、ぼんやりとしたイメージのようなものとして見えました。

 

 

その時の悔い改めの祈りでは、ローマ書6章前半にある「キリストの死にあずかるバプテスマ」に集中して、自分をイエス様とともに十字架に付けて、死なしめるということを行なっていました。まさに自分の「死」に取り組んでいたのです。その時に、聖霊の助けによって見えた地獄でした。

 

わかったのは、イエス・キリストを信じないで、罪が赦されることなく死んでしまうと、その地獄に行き、永遠に苦しむことになるということでした。すべて聖書に書いてあることです。

 

 

聖書では、黙示録にも地獄の記述があります。以下の聖句では、イエス・キリストを信じる信仰をもった者は「いのちの書」に名前が書かれていること。いのちの書に名前が書かれていない者は、火の池=地獄に投げ込まれることが書いてあります。

 

神は、言葉でもあられます。神は、行うことをすべて人間に伝えるために、聖書を用意されています。これによってその怒りを避けるための道を見つけるためです。

 

また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。

ヨハネの黙示録 20章12節

 

いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

ヨハネの黙示録 20章15節

 

 

この地獄に行く人たちを、もう少し具体的に書いているのが以下の聖句です。すなわち、イエスを信じない者、罪を犯した者、偶像崇拝をする者。

そうした人たちが、硫黄と火の燃える池に投げ込まれます。

広い意味の「スピ」をやっている方々にも警告させていただきますが、以下にある「魔術を行う者」ないし「偶像を拝む者」になってしまうので、死ぬ前にイエス・キリストを受け入れないと地獄に行ってしまいます。

 

勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」

ヨハネの黙示録 21章7~8節

 

この地獄は、まさに恐ろしいところです。いったんそこに投げ込まれると、永遠に出てくることはできず、地獄でいかに悔い改めようが、どのような救いもそこにはありません。生きているうちに、いま、イエス・キリストこそが本当の神であり、救い主であるということを信じることによって、その地獄での永遠の苦しみから逃れることができます。そればかりか、いわゆる天国で、永遠の喜びを経験していくこともできるようになります。

 

私はたまたま、大きな罪を自覚して、その悔い改めの一環として、自分をイエス様とともに死なしめるという祈りをしていた時に、地獄を見せられました。

 

生きているうちに、イエス様を受け入れ、その救いにあずかる者になったことで、その地獄にも行かずに済むのだという安堵が来ました。

 

イエス・キリストは、これをお読みの方を、どのようなところからも救い上げて、永遠の平安と喜びの中に迎え入れて下さることができる、唯一の道です。

新約聖書には「まことの神」(ヨハネ17:3)とありますが、これは「天の父」「父なる神」のこと。この「父」に対して、イエスは「子」「神の子」「神のひとり子」です。

この「子」であるイエスを信じることによって、救われ、「父」と「子」がおられる「神の国」に入っていくことができます。

 

「子」も神ならば「父」も神。

 

中でも「子」であるイエスは、人間としてこの世に来られ、十字架に付けられることをよしとして、自分自身を犠牲にされて、私たちに救いの道を授けて下さいました。このような神は他にはありません。「父」が「子」にそのことを命じ、「子」はそれに従って、十字架に付けられて死ぬのをよしとされました。この「子」の犠牲と信仰があったことで、「父」の全能の力が働いて、十字架で死んだ「子」は三日目によみがえりました。このよみがえりは、イエスを救い主であると信じた人に起こる新しい命の型です。

 

イエス・キリストを信じる福音に耳を傾けましょう。

 

アーメン