奇跡についての議論 - 信仰によって救われること | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル


先日書いた祈祷会で起こった奇跡に関する投稿を、Facebookのクリスチャングループで紹介したところ、奇跡に関する議論が少し行われました。

その中で思ったのは、イエス・キリストを信じる信仰ができたことによって自分が真に救われたこと。これこそが奇跡だと、いうことです。

 

イエス・キリストを信じたことがない人には、どういうことなのか、ピンと来ないと思いますが。

また、私も、クリスチャンと名の付く存在になって、十数年の間、救われた実感がありませんでした。それは、ほんとうの意味での信仰がなかったからだと思います。

 

信じて、口で言うと、救われる。とは、ローマ人の手紙10章に書いてある真理です。これは大変に不思議なことで、論理的な頭で考えてもわからないことです。私も長らくわかりませんでした。

 

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10:9-10)

 

これは、人間の努力によって起こることではなく、人間の理解をはるかに超えた神のわざとして起こることです。

 

イエス・キリストが自分の主であると信じる。イエス・キリストが自分の人生の救い主であると信じる。イエス・キリストが十字架に付けられていったんは死に、そうして三日目によみがえったと信じる。こうしたことを信じることができること自体が、奇跡です。自分の努力によって信じることはできません。神からうながされて信じるのです。内に働く聖霊によって信じるのです。これは神のわざです。

 

イエス・キリストは、神が愛するひとりだけの息子です。この愛する息子が、地の上に降りて来て、父としての神が命じることをすべて行い、十字架に付けられて殺されることをも受け入れて、実際にそのようになさった。この愛する御子を信じる人を、神は、特別に扱って下さるのです。ただ、ひたすらに信じればよいのです。自分の愛する御子を信じた人を、その信仰のゆえに救って下さるのです。

 

「義と認められ」とあるのは、自分の過去のすべての間違い、汚らしいこと、罪、赦されない行為、人に対して行ったひどいこと、自分の弱さゆえの恥ずべき行動など、すべてをチャラにして、神様が「あなたは正しい存在になった」と認めてくれるということです。これもものすごいことです。人間にはできない、神のわざです。

 

これらは、経験してみると、まさに奇跡です。

 

何の努力もなく、イエス・キリストを信じて、口で言えば、恵みとして救われるのです。これは目に見えないことです。しかし、確実なことです。これは奇跡と言ってよいでしょう。

 

ハレルヤ!