しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
ヘブル人への手紙 7章24~25節
自分にはできなくとも、神にはできる、ということがあります。ものすごく困難な状況にある時に、自分の頭ではどうやっても解決しそうに思えない状況がある時に、ほとんど死にそうになって、イエス・キリストにすがるように求めると、あるいは、イエス様の名によって天の父に祈ると、あるいは「聖霊様、助けて下さい」と内なる聖霊に助けを求めると、そうしてその時にキーとなる聖書のみことばを一つでもよすがにしていると(その言葉からくる信仰が少しでもあれば)、必ず、応答があります。この応答は、状況の変化だったり、解決策が突然降って湧いたように展開したり、相手の態度が変わったり、人間関係が変化したり、といった様々な形をとります。
これは、天で、天の父の右の座におられる、イエス様が、見ておられて、イエス様にすがって来る人たちをあわれんで、なにかをして下さるからなのでしょうね。それが上のヘブルにある「とりなし」です。
神は、私たちのすべてを、リアルタイムで見ておられます。わかっておられます。そうなのですが、具体的に、イエス・キリストを通じて、祈るなり、口から神の言葉を告白するなり、しないと、神は動けません。口から出る言葉は人間に委ねられています。信仰を持って神の言葉を口にする時、そこに神の力が働きます。祈りであれ告白であれ。
それは、天で、イエス様がとりなしておられるからだ、と理解すると、非常にしっくりと理解できます。
アーメン