基本的に、神は、私たちを、神にふさわしい者とするために、いつも手を差し伸べています。多くの場合は、私たちの方が、ある意味で鈍いので、そのことによく気づきません。
イエス・キリストについて聖書で書かれていることを素直に読むと、実に驚くべきことが書かれています。
イエスを救い主であると信じるだけで、永遠のいのちが与えられます。永遠のいのちとは、単に言葉だけで捉えると、何のこともなく通り過ぎてしまいますが、よくよく考えてみると、想像を絶する中身を持っています。
人間が罪だらけでは、永遠のいのちの中に入って行っても、苦しさが永遠に引きずられるので、楽しくないでしょう。
永遠のいのちの中では、明るく、楽しく、喜びに満ちて、いつも感謝し、いつも賛美して、聖なる者として、神の栄光を反映させた神のお姿に似た者として、永遠のいのちを生きます。それだから、永遠のいのちがすばらしいのです。
そうした者に近づけるように、聖書では、実に多くの手段を提供しています。学んで、トライして、自分に取り込めば、あとは聖霊が助けてくれます。神の力によって、自分が変えられていきます。そんなにたくさん片意地張って頑張らなくとも、聖霊が神の力を発揮して、助けてくださいます。
イエスの言葉も、神の力として働きます。天の父が、常に見ていて下さいます。
そのようにして、色々な形で、神は、私たちに手を差し伸べています。これが神の愛です。
神の愛を知るためには、神に頼り、神に近づいてみることです。聖書で書かれている約束を、「どうか、私にも下さい」と祈ってみることです。
私を救って下さい。
私を助けて下さい。
私にあなたの恵みを与えて下さい。
このように、素直に口に出して、祈ってみることです。
すると、常に手を差し伸べている神の力が働き、イエス・キリストを中心とした信仰が動き始めるでしょう。色々の手段が、一つひとつ、切り開かれて行くでしょう。そもそも人間は、神の似姿として造られました。そうした人に、なって行くでしょう。
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
コリント人への手紙 第一 2章9節
アーメン