ヨハネが書いた「いのちの水」 | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

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1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

たとえ高ぶりが来たとしても、聖霊が悔い改めに導きます。感謝します。

いのちの水、いのちの水の川。

昨日書いたような事柄の対局にあるのが、この「水」だと思います。

イエス様のおっしゃっていた「生ける水」です。

平安があります。平和があります。

新約聖書では、水を検索すると、主な言及はヨハネの福音書とヨハネの黙示録にあります。執筆者であるヨハネに特別な意味合いが伝えられていたのでしょう。
(執筆者ヨハネについては、聖書学者市川喜一氏の天旅に言及があります。同サイトに限定して「ヨハネ教団」で検索すると、関連の論考が出てきます。例えばこのページはその代表的なものです)
 

そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである――
イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:9-14)


そこで出てくる「生ける水」、「いのちの水」。

この「生ける水」ないし「いのちの水」は、聖霊を指していると解釈されています。

日本にいると四季があり、雨が多いですから、水のありがたみがあまりわかりませんが、イエス様がいらっしゃった頃のカナンは、井戸に行かないと水が手に入らないし、それは今でも、水道などの手段がない限り水が入手できない、乾いた地がどこまでも広がっている土漠です。

そこで出てくる「生ける水」、「いのちの水」。

水に関する黙示録の言及も興味深いです。
 

なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」(黙示録7:17)


「いのちの水の泉」。ギリシャ語原典を確かめてみると、ヨハネの福音書とヨハネの黙示録とでは、言葉の変化形が少し違うのですが、大元の言葉は同じです。どれも同じ「水」を言っています。

 

また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。(黙示録21:6)

御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。(黙示録22:1-2)

御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(黙示録22:17)

 

 


黙示録に書かれている「水」と、ヨハネの福音書に書かれている「水」とは、真に同じものだと言う気がします。「いのちの水」です。
渇いた者の渇きをどこまでも癒す水です。


この「水」が聖霊だとすると、聖霊はどこまでも染み込みます。

聖霊は「川」となって流れ出します。

ヨハネの福音書でイエス様は、その人の内で泉となって流れ出すということもおっしゃっています(ヨハネ4:14)。

黙示録の中では天国にもその川が流れています(黙示録22:1)。




Caitlin North