小説をほんとに読まなくなって何年も経っている…という風に何かを読まないことをブログのネタにすべきではないが、ほんとにそうなのだからそうです。
昔は、小説の中に救いがあると本気で思って読んでいました。村上春樹も夏目漱石も。「百年の孤独」も、「ジャン・クリストフ」も。

現実問題として、小説の中には救いはないというのが最終的な結論です。救いはイエス・キリストにしかありません。究極の究極です。

 

従って、小説の中に求められるのは、良質な気晴らしか、賛美か。多くの場合は、この世の霊が書かせているので、聖霊から離す働きがあります。聖書的なものから引き離すので、間接的に反キリストだと言えなくもありません。小説ばかりを読んでいても、この世の諸々の複雑に入り組んだ課題の中から脱出できることはありません。経験済みです。その中に10年いても20年いても、救われることはありません。救いは生ける神、主イエス・キリストの中にのみあります。これは20年といったタイムスパンで時間をムダに…イエスにあれば何もムダにならないというのがパウロの論点ですが私もそう思いますが…しかけた私が言うのだから間違いがないでしょう(^o^)

カズオ・イシグロがノーベル文学賞をもらうことになって、村上春樹に済まないというコメントを出していました。作家としては、村上春樹の方が先輩なはずです。「わたしたちが孤独だったころ」しか読んでいないので、はっきりとは言えませんが、作家としての格は村上春樹の方がはるかに上なんではないかと思います。

「わたしたちが孤独だったころ」を読んでいたのは、公私ともに様々な渦の中にはまり込んで、一家離散となり、仕事もお金も失って失意に沈み込んでいた2010年から2011年にかけて。生産的なことをやろうにも何をやったらよいのかわからないので、業務ブログをせっせと書き、平行して聖書をよく読むようになり、当時はまだ小説の中に何かがあるだろうと思ってカズオ・イシグロの文庫本「わたしたちが孤独だったころ」を読んだりしていました。

この作品は、きわめて良質のエンタテインメント作品であり、めちゃおもしろいです。第二次世界大戦に入る前の時期に一家で上海に住んでいた英国人の少年が主人公。その子が少し大人になって、世界のわけがわかるようになって、自分の置かれた立場が見えるようになった頃が第二次世界大戦の真っ只中。彼は戦場の上海に戻って行って、様々なことを経験することになります。文学で言うビルドゥングスロマンの趣きがあります。

なぜ彼は働かなくても良い学校に通い、ゆったりとした青年時代を送ることができていたのか。父も母もいなくなっているのに、なぜ彼は、友人と語らいながら将来の夢に思いを馳せたり、芸術作品のあれこれを論じあったりすることができていたのか。結末がものすごく衝撃的であり、この衝撃性の強さにより、エンタテインメント作品としては第一級と言って過言ではない作品になっています。

 

現実にこのようなことがあり得るのか。わかりません。

 

あり得るかも知れない。そこに救いはあるのか。

 

小説世界にはないとしても、主イエス・キリストであればまったく救いが可能なわけですけれども、小説の中のものと、救い主であられるイエス様とを同一平面で論じることはフェアではありません…。

カズオ・イシグロに、いつか、本気でイエス・キリストの贖罪の本当の姿をありありと描き出す、世界文学最高峰のめちゃすごい作品を書いて欲しいなと思ったりしております。
 

The Bund in 1928, Public domain

 

後記。上海には2000年前後に1年ほど、行ったりきたりしていました。ホテルに泊まるのがもったいないので、知人のお世話で部屋を借りていたこともあります。上海体育館のそばです。冬は寒かったです。あそこは世界のいろいろな国の人が入り混じって住むメトロポリスとしての経験が豊富で、東京よりはるかに国際的な都市であるなと実感していました。戦前戦中の「上海租界」があった頃。その頃が上海の歴史の中で最初の華だったのだと思います。カズオ・イシグロの作品ではその頃が舞台になっています。同じ時期の上海を描いた映画作品にスピルバーグの「太陽の帝国」があります。

 

景山民夫の「虎口からの脱出」にも同じ時期の上海が出てきます。この作品もめちゃおもしろかった。別な意味で第一級のエンタテインメントです。景山民夫(T T)

 

 

 

これは新曲ですね。今年9月11日に公開された動画です。The Belonging Coというグループの”Peace Be Still”。


 

失礼しました。このサイトで説明を読むと、”The Belonging Co”は教会の名前ですね。テネシー州ナッシュビルにあります。スポンテニアス・ワーシップの礼拝賛美を中心に置いている教会のようです。

この歌でフィーチャーされているLauren Daigleはこれまでに紹介してきたベテル・ミュージック系の人たちとはまったく違う流れの人ですね。声に力強い伸びがあっていいです。

イエス、あなたは平和の君。

Let faith rise up in me.
私のうちに信仰が立ち上がりますように。

Let faith rise up in me.
私のうちに信仰が立ち上がりますように。

この歌もなかなか力強いです。信仰をかきたてます。



Photo courtesy of Freedom II Andres

前の投稿で記した「言葉に信仰が乗っかる」現象。

 

これにより奇跡が起きます。

 

イエス様が次のようにおっしゃったことは、そういうことです。信仰を持って何かを言い、その言葉に信仰を乗せれば、それがそのようになるということです。

 

このことは、大変に不思議なことですが、ジェン・ジョンソンのいくつかの歌や彼女が賛美リードをしているスポンテニアス・ワーシップを何回、何十回となく聴いて、そしてまた、他の人が歌う同じ歌や他の人が賛美リードをする同じ曲によるスポンテニアス・ワーシップを何度も確かめて得られた知見です。

 

ジェン・ジョンソンに匹敵する信仰が乗っかっている他の方の歌やスポンテニアス・ワーシップをまだ知らないため、今のところは、ジェン・ジョンソンに限られた現象だと言ってよいでしょう。しかし、これが一般化する予感はあります。大いなるリバイバルの聖霊の波がこれを世界の隅々にまで浸透させるでしょう。

 

例えば、m-floのVERBALが彼の楽曲でこれを適用したことをやると、VERBALの信仰が乗っかった言葉が、彼のm-floサウンドに乗って世界をかけめぐります。彼がストレートな信仰をストレートに出す表現を行うと腹をくくった後、ということですけれども。ちなみにVERBALは神学校にも通ったことがあるプロテスタントのクリスチャンです。

 

この言葉に信仰が乗っかって時間と空間を超えていく奇跡。これが聖書の本質だと考えることができます。聖書の言葉はよく、神の言葉だと言われます。しかし何の予備知識もなくそういうことを言われても、ピンときません。

 

しかし聖書は、聖書執筆者の信仰が乗っかった言葉が連ねられたものと考えると、聖書執筆者は聖霊様でもあられますから、特別な信仰が乗っかった言葉集ということになり、聖書の言葉のパワフルさがよくわかる理解となります。

 

よって、聖書の言葉に、自分の信仰を乗っけて、「山よ、おまえ、動け」とやると、山が動くのです。エイヤッ!と力をこめて気張って言わなくても、信仰が乗っかればよいので、ささやくような言葉であっても、それで山が動くのです。

 

聖書の言葉は山が動くレベルの言葉で埋め尽くされていると言ってよいでしょう。神が書いたものだからです。

 

その神が神の信仰を乗せて書いた言葉に、自分の信仰を乗せて、神を真似て口に出してみる時、人は神に似たものになるように作られていますから、神が言葉を発した時と同じことが起こるのです。そのことをイエスは、『神の国があなたがたに近づいた』と言って伝えています。

 

これは創世記冒頭の、サタンに冒される前の、アダムが口にする言葉が神の言葉と同じものであった状態の回復です。「光あれ」と言うと光が現れる言葉の回復です。

 

Photo courtesy of Tiago Pinheiro