前の投稿で記した「言葉に信仰が乗っかる」現象。

 

これにより奇跡が起きます。

 

イエス様が次のようにおっしゃったことは、そういうことです。信仰を持って何かを言い、その言葉に信仰を乗せれば、それがそのようになるということです。

 

このことは、大変に不思議なことですが、ジェン・ジョンソンのいくつかの歌や彼女が賛美リードをしているスポンテニアス・ワーシップを何回、何十回となく聴いて、そしてまた、他の人が歌う同じ歌や他の人が賛美リードをする同じ曲によるスポンテニアス・ワーシップを何度も確かめて得られた知見です。

 

ジェン・ジョンソンに匹敵する信仰が乗っかっている他の方の歌やスポンテニアス・ワーシップをまだ知らないため、今のところは、ジェン・ジョンソンに限られた現象だと言ってよいでしょう。しかし、これが一般化する予感はあります。大いなるリバイバルの聖霊の波がこれを世界の隅々にまで浸透させるでしょう。

 

例えば、m-floのVERBALが彼の楽曲でこれを適用したことをやると、VERBALの信仰が乗っかった言葉が、彼のm-floサウンドに乗って世界をかけめぐります。彼がストレートな信仰をストレートに出す表現を行うと腹をくくった後、ということですけれども。ちなみにVERBALは神学校にも通ったことがあるプロテスタントのクリスチャンです。

 

この言葉に信仰が乗っかって時間と空間を超えていく奇跡。これが聖書の本質だと考えることができます。聖書の言葉はよく、神の言葉だと言われます。しかし何の予備知識もなくそういうことを言われても、ピンときません。

 

しかし聖書は、聖書執筆者の信仰が乗っかった言葉が連ねられたものと考えると、聖書執筆者は聖霊様でもあられますから、特別な信仰が乗っかった言葉集ということになり、聖書の言葉のパワフルさがよくわかる理解となります。

 

よって、聖書の言葉に、自分の信仰を乗っけて、「山よ、おまえ、動け」とやると、山が動くのです。エイヤッ!と力をこめて気張って言わなくても、信仰が乗っかればよいので、ささやくような言葉であっても、それで山が動くのです。

 

聖書の言葉は山が動くレベルの言葉で埋め尽くされていると言ってよいでしょう。神が書いたものだからです。

 

その神が神の信仰を乗せて書いた言葉に、自分の信仰を乗せて、神を真似て口に出してみる時、人は神に似たものになるように作られていますから、神が言葉を発した時と同じことが起こるのです。そのことをイエスは、『神の国があなたがたに近づいた』と言って伝えています。

 

これは創世記冒頭の、サタンに冒される前の、アダムが口にする言葉が神の言葉と同じものであった状態の回復です。「光あれ」と言うと光が現れる言葉の回復です。

 

Photo courtesy of Tiago Pinheiro