深夜にキリスト教関連のページを色々と巡っていると、色々な聖句が目に飛び込んできます。

萬の物のをはり近づけり、然れば汝ら心を慥にし、愼みて祈せよ。(第1ペテロ4:7)
萬(よろず)、慥(たしか)、愼(つつし)

これは、黒崎幸吉著・註解新約聖書Web版にある第1ペテロ4:7の文語訳です。文語体なので「おわり」も「をはり」になっています。荘厳な響きが染み渡る感じがします。旧約の主の御告げのような印象です。

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。新改訳)

この「心を整え身を慎みなさい」のところ、日本語としてきれいなので、そのままさらっと読み飛ばしてしまいそうな雰囲気もあります。英語訳で確かめてみると。

King James Version
But the end of all things is at hand: be ye therefore sober, and watch unto prayer.

Young's Literal Translation
And of all things the end hath come nigh; be sober-minded, then, and watch unto the prayers,

“Sober”(しらふ)という言葉が使われているのですね。

しらふで思い当たるのは、聖霊様に満たされていると、ある種の酔ったような状態になるということ。使徒行伝(使徒の働き)の2章で、ペンテコステの聖霊が降った信徒たちを、「酔っている」という言葉で表現した部分があります。

 

聖霊に満たされる経験や、賛美礼拝で主の臨在に触れる、あるいは、ものすごい主の栄光の中に入る経験をすると、お酒に酔うのとはまったく異なる形で、ある種の「酔う」ような感じになることはあります。また、その時間が過ぎても、教会堂を出て帰る道々、火照った体を冷まして歩く、というようなこともあります。


この「酔う」と表現されていることの中身は、聖霊様によって魅了された状態、あるいは、主の臨在に浸って心を注ぎだしている状態だと言うことができます。

その反対として「霊的にしらふである状態」というのもあると思います。霊的にシャキッとしている状態です。

上の第1ペテロ4:7は、終わりが近くなっている時代の祈りのコンディションとしては、霊的にシャキッとして、心にけじめをつけることが重要だ、と言っているのでしょうね。

賛美礼拝で、自分のからだを主に捧げて、主の臨在の中で、主と一つになるような体験も必要。


一方で、霊的にシャキッとした状態で聖書の学びをし、霊的にシャキッとした状態で祈ることも重要。


この両方がクリスチャン生活における車の両輪なのかも知れません。

 

あ、「万物の終わり」は色々な方々の発言を総合すると、まだ何年も先のようですよ。とは言っても、いつかは誰にもわかりませんが…。まずは収穫の刈り取りに励みましょう。大収穫が来るようです。

 

 

 

Photo courtesy of Lisa Yarost

「ヤコブのはしご」が表現されている