i-modeが世に出て、携帯キャリア各社が同様のサービスを始め、
しばらくすると携帯で開設出来るホームページのサービスが始まった。
ブログもツイッターもない時代だ。
無料でお手軽なホームページだったが、画像をたくさんアップするのは、通信料金的に言って不向きな時代だった。
皆、面白がって始めても、素人の個人で 画像なしに出来るコンテンツは、日記ぐらいのモノで、
それ以外は 掲示板での交流だった。
訪問カウント数を 自身の存在価値だと錯覚し、迷走者がたくさんいたのを覚えている。
ボクも、
わけもわからず興味本位で始めた。そしてすぐに 自分に向いているコンテンツを思い付いた。
それが「詩」を書いて発表する事だった。
詩は、中学生の頃から書いていたし、自分に向いている。
ほんの一個人の作品を、公の目に晒される場所に置く事が出来るホームページは、楽しそうだと思った。
そして、
同じ様に詩を書く人と交流し、感想やダメ出しなど言い合えれば、もっと良い詩が書けるようになれると思ったのだ。
しかし、
予想とは違って
詩のホームページと称しているページでも、
この世界に「詩人」と呼べる様な人は、ほとんどいなかった。作品を評価し合える様な仲になれる人とは 出会わなかった。
わずかにいた詩人は
一人は、ホームページに作品を発表する事に、あまり熱心ではなく、自然消滅してしまった。
もう一人は、本を出すようなプロの詩人で、自分の作品の感想を やたら求めるばかりだったが、
逆にボクの作品の感想を求めても それにはいっさい応えない。作風の優しい印象とは相反して、作者の印象は冷酷そのものだった。
上記の二人以外だが
いろんなホームページ上にアップされている「詩」のほとんどは、「詩」と呼ぶより
「詩の形式で書かれた呟き」だった。
悩みの様な 不安の様な 愚痴の様な、心の中に渦巻いていて、ホームページという小さな吐き出し口を見付けて、溢れ出てしまった、そんな言葉の連なりだ。
読めば、意味はわからなくもないのだが、
それらの作品には
必ずと言って良いほど、題名と署名がない。
同じ作者は、同じ様な事を何度も何度も繰り返し書いている。
支離滅裂になり勝ちで、まるで
悩んでいる最中に 頭に浮かんだ言葉のスーパーインポーズを、そのま書いている感じだ。
たまに、
詩的な言葉遊びもや 少し手直しすれば良くなりそうな作品もあるが、アドバイス的なメッセージは、いっさい拒否される。
そう
彼ら 彼女らは、より良い作品を書きたいわけではなく、ツラい気持ち 切ない気持ちを詩という形式で呟き、共感してくれる人を探し求めているだけなのだ。
詩のホームページと称しながらも、ボクとは明かに方向性が違い、交流が深まる事はなかった。
彼ら彼女らの詩の最大の特徴は
「観念で書かれた詩」なのだ。
悪い言い方をするなら、
頭の中だけで考えた屁理屈を
詩という形に並べている という事だ。
色彩や季節感がなく、仕草や動きや肌触りがない。響く様なオノマトペがない。映像がまるで浮かばない、そんな詩ばかりだ。
作品と呼ぶにはシロート臭く、どれも似たり寄ったりの印象になってしまう。
今は
個人のホームページは下火になり、日記はブログに継承され、交流はツイッターやラインに形を変えたようだ。
心の呟きは 詩の形をとらず、文字通りツイートとなって共感者を探し求めている。
それでも、ネット上(ブログ等)に発表される詩は
ただの呟きではなく、作品として書かれたはずなのだ。
あなたの詩は
「観念」の詩になっていませんか?
観念の詩も、メロディに乗り 魅力的な歌唱力で歌われれば、また違った輝きを放つ事もあるでしょう。
でも それは、歌い手が印象に残るだけ。
あなたが伝えたいメッセージは
あなた自身ではなく、詩の中に登場させた
あなた以外のキャラクターに語らせてみてはいかかがですか?
詩 そのものがプロモーション ビデオのように、色彩、動き、五感を取り入れてみてはいかかがですか?