★映画のMIKATA【41】長崎俊一監督「西の魔女が死んだ」★映画をMITAKA… | 流石埜魚水の【特選映画】、★映画のMIKATA★映画をMITAKA・・・

流石埜魚水の【特選映画】、★映画のMIKATA★映画をMITAKA・・・

都市生活者の心と言葉を掌にのせた小説、電脳化社会の記号とイルージョンを巡る映画、都市の孕むシンボルと深層を探るエッセイ、街の風景と季節の色を彩る短歌…。小説と映像とエッセイと短歌をブログに・・・掲載します。

◆スタッフ

監督:長崎俊一/脚本:矢沢由美、長崎俊一/原作:梨木香歩/撮影:渡部眞/音楽:トベタ・バジュン/美術:矢内京子/美術監修:種田陽平/


主題歌:手嶌葵/製作国:2008年日本/上映時間:1時間55分/公開日:2008年6月 /


◆公式サイト:http://nishimajo.com/top.html

◆キャスト
サチ・パーカー (おばあちゃん) /高橋真悠 (まい) /りょう (ママ) /大森南朋 (パパ) /高橋克実 (郵便屋さん) /木村祐一 (ゲンジ) /

流石埜魚水の阿呆船、★映画のMIKATA★映画をMITAKA・・・


子ども心のいたたまれない傷を想像して、「西の魔女が死んだ」に、私自身もいささ胸を痛めました。まいがおばあちゃんから癒されたように、この童話的世界から私自身も心の安らぎを求めてこの映画をとり上げます…。 


私は、この映画を三つの視点から観賞したいです。


いずれも映画に表現された現代的問題だと思っています。映画は時代の「今」を表出している表現形式なので、映画批評は、映像から「今」を読み取り、自分の映像的蓄積と全人格を束ねて、「今」と対峙させながら、鋭角的に「今」にコメントを出さなくては…と思ってます。


1)前回、ブログで取上げた映画、「色即ぜねれぃしょん」で、男の子=少年のリビドーの迷走と成長、思春期の複雑怪奇な心の逸脱と成熟の問題に少し触れましたが、今回のこの映画、「西の魔女が死んだ」は、女の子=少女のホルモンの浮遊と成熟、思春期の逸脱と成長の複雑怪奇な心のブルーの問題を表現した映画ではないでしょうか…。まず初めに、この視点からこの作品を見たいです。


子どもから大人からへと成長する思春期の十代、ちょうど中学生、高校生の年代…、男の思春期はピンクの妄想で頭がいっぱいです。それも無視できない大きな思春期の問題です。それに対して、女の子の思春期は生理が始まり、妊娠して子どもを生む成熟した「女の身体」へ脱皮するためのホルモン分泌が始まります。そのため、ホルモンのバランスによって大変心がブルーであったり、乙女心に浮かれてうきうきしたり、14才の少女=思春期は、女へ変身・脱皮する、危険で不安定な人生の成熟期の入り口です。この年代に、思春期の危機を乗り越えられなくて、友達や学校や家族のスモール集団の中で、家出したり不良になったり暴れたり自殺したり殺人にいたったり…身体と心は成熟」に向かって逸脱と迷走と錯乱をくり返します。


思春期の家族をめぐり、親子関係、小さな社会「学校」の人間関係、思春期独特の「心」の縺れや「生」の揉め事など、成熟過程の少年=少女の精神現象を描いた映画として見たいです。


2)私は、この映画をおばあちゃんが登場し、おばあちゃんが主人公である「おばあちゃん映画」としてアプローチしたいです…。近頃、おばあちゃんが孫を育てるというストーリのヒット映画が数本あります。


お笑いの島田洋七が、自伝的な幼年期を書いた小説を映画化した「佐賀のがばいばあちゃん」もその一作でした。貧しいが快活な佐賀の祖母に預けられた主人公「明広」が、佐賀の田舎町でおばあちゃんと生活しながら、おばあちゃんの生きる智恵を教えられながら成長する姿を描いていました。これも「おばあちゃん映画」です。


「時をかける少女」の細田守監督のオリジナル作品であるアニメ映画、「サマーウォーズ」もまた「おばあちゃん映画」ではないでしょうか。インターネット上の仮想世界「OZ(オズ)」の中でキーボードを叩きながら戦う、数学の得意な高校生健二と、女子大生の先輩夏希と、長野県上田市の旧家「陣内家」にどんと構えている祖母の栄ばあちゃんが主人公の、私はこれも「おばあちゃん映画」として見ていました。


人類学者の長谷川眞理子さんは、…おばあさんの知恵や経験を生かすことで人類は繁殖成功度を高められた…、おばあちゃんの存在が人類を繁栄させた…という、「おばあさん繁栄」仮説を支持しています。


改めて、この映画をおばあちゃんの存在をクローズアップする映画と見たいです。敷衍して、核家族化して小さな嬰児を抱えた母親が、パートナーのパパは仕事が忙しく夜は接待で忙しく、誰に相談できず誰にも育児の支援を受けられずに孤立無援になったママが、育児ノイローゼに陥り、子どもを虐待したり、子どもを殺したり、子どもを捨てたりする育児放棄があちこちで社会問題化しています。そうした人類の歴史にとっても危機的な状況に対して、おばあちゃんの存在と役割をもう一度見直そうとする反対休符の映画ではないでしょうか…。


3)映画「西の魔女が死んだ」の原作者、梨木香歩さんは、絵本も出版されている童話作家ですが、童話=絵本と見做して、柳田邦男が提唱している童話=絵本的世界の効用、「感情の分化」」を促すものとして、この映画を見たいです。


柳田邦男の著書、「砂漠で見つけた一冊の絵本」(岩波書店)と「大人が絵本に涙する時」(平凡社)で言及されている<絵本の力>を要約しておきます。

■「砂漠で見つけた一冊の絵本」(岩波書店)
…絵本というものは、幼い子どもだけのためにあるのではない。私は、絵本とは魂のコミュニケーションだと思っています。…内容は年をとるとともに味わい深くなる。絵本の可能性は広く深くなる。要は、読む者がどのような状況のなかで、何を求めようとして絵本を手に取るかにある。…


…最近しきりに思うようになったのは、人は人生において三度、絵本や物語を読み返すべきではないかということだ。多くの人は、自分が幼い時と、親になって子どもを育てる時の二度、…人生後半になって絵本や物語に親しむのは、その内面的な成熟に結びつく営みなのだと、私はとらえている。…


…人間が生きるのを支える言葉というものは、案外短くて簡単なものではないかと、このところしきりに思うようになっている。とくに絵本や童話に親しむようになってから、その思いは強くなっている。…


…人が人生で出会うさまざまな危機や波瀾に対処する心のやわらかさを獲得したり、他者の悲しみや痛みに対する理解と思いやりの心を持つようになったり、美しいものに感動する豊かな感性を持つようになったりするように心が育まれるうえで欠かせないのは、少年少女期にさまざまな物語に接することだ。…


…心の危機、言葉の危機がこの国の人々を被いつつある今、絵本もまた詩に劣らぬ、心の再生の役割を果たす可能性を秘めているように、私には思えます。…


■「大人が絵本に涙する時」(平凡社)
…絵本の力は一人の人間の人生さえも変え得るほど大きく、暗く落ちこんでいた心を絵本によって癒され今日を生きる力を取れ戻したという人も少なくない…


…なぜ「今絵本を」なのか。その理由は、三つほどある。(1)人は社会生活を営むうちに、仕事や家事やお金のことばかりに頭を使い、いつしか豊な感性や相手を思う心のもち方や生きるうえで大切なものは何かを考えるゆとりを枯れさせている。絵本はそういうことに気づかせてくれる。2)落ち込んだ時や年老いたり病気になったりした時に、絵本は心をやわらかくほぐしてくれたりユーモアの心を取り戻させてくれたりする。(3)子どもの情報環境がテレビ、ケータイ、パソコンなどによって劣悪化している中で、絵本は親と子、大人と子どもが同じ空間と肉声と表情と物語の世界を共有できるメディアとして他にない可能性を持っている。そのことは子どもの心の発達とパーソナリティー形成に重要な意味を持つ。…


…感情がきめ細やかに育つのを「感情の分化」と言う。「感情の分化」は母親をはじめとする家族との接触のなかで芽生え、発達していく。母親や父親がたくさんの絵本や読み物を感情をこめて読みきかせすると、物語の展開にそっていろいろな感情が動き、「感情の分化」がきめ細かさを増していく。これに対して、親が子どもを放置し、「テレビに子育てをまかせる」ような日常になると、子どもの「感情の分化」はほとんど起こらないで、怒りの感情や抑圧感ばかりが強くなり、他者の気持ちを汲み取ったり思いやったりする心がほとんど育たなくなる。実は、絵本や読み物による感情の形成という営みは、子どもだけの問題ではない。大人にも必要なのだ。…人生の後半になってから、絵本や少年少女読み物をあらためて読むというのは、喜びや悲しみのきめ細かな感情を取り戻すこと、心の砂漠にオアシスをもたらすことにつながるはずだ。それは、幼少期の「感情の分化」を再体験するのにも等しいと言える。…

彼が57歳の時に、25歳の息子が自殺しました。茫然自失の状態から、絵本を読むことで心の癒しを受けたことをきっかけに、童話=絵本の意味と役割を主張するようになる経緯は、彼の本でくり返し語られているドラマチックな体験談です。「絵本の力」(岩波書店)の中でも、…自分の生き方のすべてが過ちだったように思えて、完全にうつ状態におちいり、なにもできない日がひと月、ふた月と続きました…と懐古しています。以来、人生の後半になって絵本の深い力を再発見したそうです。


私自身も、この映画を見て心の危機を癒されたような気がします。


さて、また悪い癖で映画を論じるまでに長い遠回りをしてしまいました。映画のストーリをまず紹介しておきます。映画からだけではなく、本から言葉を補っています。


…西の魔女が死んだ…という言葉から物語は始まります。

「まい」は二年前におばあちゃんのもとでひと夏を過ごすことになります。

おばあちゃんは英国人で、日本人の夫に先立たれてからは田舎で一人暮らしをしています。魔女の血筋を引くというおばあちゃんの田舎暮らしは、畑で野菜をつくる自給自足の生活です。


英国人とおばあちゃんと、日本人のおじいちゃんとの混血であるママと「まい」との間で、おばあちゃんのことを「西の魔女」と呼んでいました。中学生になったばかりの「まい」はある日、「…わたしはもう学校へは行かない。あそこは私に苦痛を与える場でしかないの」と宣言して、学校へ行くのが嫌になり、登校拒否になりました。


娘の扱いに困ったママはパパと相談して、「…田舎の母のところでゆっくりさせる」といって、おばあちゃんのもとに暫く預ける事にしました。「まい」はおばあちゃんが大好きであった。まいは小さい頃から、「おばあちゃん大好き…」と連発していた。おばあちゃんは、二人の合言葉のように微笑みながら「アイ・ノウ」と答えるのがいつもでした。


魔女の家系の末裔というおばあちゃんは、魔女が持つ不思議な力についてまいに話しました。そして、自分にも魔女の血が流れていると教えられ、魔女になりたいと願い、おばあちゃんから「魔女修行」の手ほどきを受けることになりました。


おばあちゅんの家は、大きな樫の木が1本立っていて、庭には葱や山椒やパセリやセージ、ミントやフェンネル、月桂樹が植えてありました。レタスについた大きなナメクジがボトリと落ちるだけで驚く都会育ちのまいでした。


昔ながらの知恵を活かしながら、自然と共生するおばあちゃんの田舎生活は、自然が溢れていました。まいにとって田舎の自然と、おばあちゃんの一言一言は、本当に新鮮な毎日でした。野に咲く花や木々を揺らす風の音など、映像も細部に自然を感じる作品です。


おばあちゃんから課された「魔女修行」は、まず初めに魔女になるための身体と頭を使った<基礎トレーニング>でした。「…早寝早起き。食事をしっかりととり、よく運動をし、規則正しい生活をする」という、毎日毎日の生活の、単純な習慣のくり返しでした。おばあちゃんはそれを、「…スポーツをするために体力が必要なように、魔法や奇跡を起こすのにも精神力が必要です…」とまいに諭します。


その魔女修行の鍛錬の真髄は、まもなく人生を閉じる「女」が、いままでの体験と生活から身につけた、その母から、さらにその母から、先祖代々伝えられた生きることの智恵を伝授するものでした。おばあちゃんはまいにこういいます、「…祖先から語り伝えられきた智恵や知識…、身体を癒す草木に対する知識や、荒荒しい自然と共存する智恵。予測される困難をかわしたり、耐え抜く力…」が魔女の力なのだと。つまり「魔女」とは、生活の智恵を身につけた長い長いおばあちゃん達「女」の生きる知識と智恵のことだったのです。


そんな森での暮らしは、毎朝、鶏小屋から生みたての卵を取って来たり、ハーブティーをキャベツの外葉にまいたり、大鍋の中で布巾を煮沸消毒したり、テーブルやクロスやシーツを洗濯したり、シーツをラベンダーの上へ広げて乾かしたり、食べ終わった食器を洗ったり…でした。そんな大自然のなかで暮らすうちに、まいは次第に生きる力を取り戻し、自然のあふれる素朴な田舎と、おばあちゃんの優しさと愛情に包まれた日々を過ごす中で、次第に心の傷を癒やし成長していく…。


おばあちゃんはまいにこう忠告します、「…ただ黙々と続けるのです。そうして、もう永久に何も変わらないじゃないかと思われるころ、ようやく、以前の自分とは違う自分を発見する…。そしてまた、地道な努力を続ける、退屈な日々の連続で、またある日突然、今までの自分とは更に違う自分を見ることになる…」と。


長く愛され読まれ続けている児童文学の名作を、静謐で透明感のある映像が特長の長崎監督の手で映画化されたこの作品に、私は感動しました。


主演のおばあちゃん、「西の魔女」を演じるサチ・パーカーは、大女優シャーリー・マクレーンの娘。幼少期を日本で過ごした経験を持つ彼女は、曇りもない青く清らかな瞳で日本語を操りながら、感受性の鋭い少年少女の思春期が体験する大きな壁、孫の「まい」の悩みを、魔女修行と称して解決していく姿は、微笑ましくも美しい物語でした。


主題歌を歌う「ゲド戦記」の手嶌葵の透きとおるような声も、清清しい自然を音で飾るアクセントになっていました。


でも、この映画は決して学校的な日常に憔悴した少年少女にだけ向けられたドラマではない。がんじがらめに心を縛り、組織という鉄の格子に閉じ込められ、日々の退屈な日常に疲れた大人たちが、心と身体を癒すためにも、おばあちゃんの魔女の家には立ち寄って癒される価値があるような気がします。


ある朝まいは、飼っていた鶏小屋に卵を取りに行きます、がしかし、いつもの鶏小屋の雰囲気とは違う…。鶏たちは野犬かイタチか獣に襲われて、雄鶏雌鳥たちがズタズタに噛み殺されていた…。この厭わしい事件のあった夜に、おばあちゃんとまいがお布団を並べて寝る場面がありました。「まい」がもう何年も間、ずっと考え続け恐れ続けている「死」のことを訊ねます、「人は死んだらどうなるの…」と。


するとおばあちゃんは、「まい」の恐怖を楽にするような魂と身体のことを優しく話します。「…おばあちゃんの信じている死後のことを話しましようね…、人は魂と身体が合わさってできています。…歳をとって使い古した身体から離れた後も、まだ魂は旅を続けなければなりません。死ぬ、ということはずっと身体に縛られていた魂が、身体から離れて自由になることだと、おばあちゃんは思っています…」と答えます。おばあちゃんは魔女笑をしながら、死んで身体から魂が脱皮するときに、「証拠を見せてあげますよ…おばあちゃんが死んだら、まいに知らせてあげますよ…」という。まいとおばあちゃんの間で交わされる心温まる会話です。


この童話のジーンと感動するクライマックスは、おばあちゃんの魂を感じる落書きを発見した物語の最後の場面ではないでしょうか…。原作の初めのおばあちゃんの「死」の訃報から、最後のシーン、台所のガラスに残されたおばあちゃんの落書き…、「ニシノマジョ カラ ヒガシノマジョ ヘ  オバアチャン ノ タマシイ 、ダイセイコウ」を読んだとき、大好きなおばあちゃんの愛をまいは身体中に実感し、おばあちゃんとの永遠の別れが「まい」を大人へと一歩成長させます…。私も、このシーンで胸がジーンと来ました。あー、これがアリストテレスがいう「カタリシス」=魂の浄化なのか…と、思いました。


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