★映画のMIKATA【34】スティーブン・ダルドリー監督「愛を読むひと」-2★映画をMITAKA | 流石埜魚水の【特選映画】、★映画のMIKATA★映画をMITAKA・・・

流石埜魚水の【特選映画】、★映画のMIKATA★映画をMITAKA・・・

都市生活者の心と言葉を掌にのせた小説、電脳化社会の記号とイルージョンを巡る映画、都市の孕むシンボルと深層を探るエッセイ、街の風景と季節の色を彩る短歌…。小説と映像とエッセイと短歌をブログに・・・掲載します。

原題:The Reader/監督:スティーブン・ダルドリー/製作:アンソニー・ミンゲラ、シドニー・ポラック/製作総指揮:ボブ・ワインスタイン、ハーベイ・ワインスタイン/原作:ベルンハルト・シュリンク/脚本:デビッド・ヘア/撮影:クリス・メンゲス、ロジャー・ディーキンス/美術:ブリジット・ブロシュ/編集:クレア・シンプソン/音楽:ニコ・ムーリー/製作:2008年アメリカ・ドイツ合作映画/

上映時間:2時間4分/配給:ショウゲート/オフィシャルサイト: http://www.aiyomu.com/  


ケイト・ウィンスレット(ハンナ・シュミッツ )/レイフ・ファインズ(ミヒャエル・ベルク )/ブルーノ・ガンツ(ロール教授 )/デヴィッド・クロス(少年時代のミヒャエル )/レナ・オリン(ローゼ・マーター/イラーナ・マーター/二役
)/アレクサンドラ・マリア・ララ (若き日のイラーナ )/ハンナー・ヘルツシュプルング:ユリア(ミヒャエルの娘) /ズザンネ・ロータ :カーラ(ミヒャエルの母)


流石埜魚水の阿呆船、★映画のMIKATA★映画をMITAKA・・・


//////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////


この映画でも私は、ベルンハルト・シュリンクの原作The Reader「朗読者」(新潮社、松永美穂訳)をかなり丹念に、ゆっくり読みました。


だから二、三点の疑問点を書いきておきます。


まず第一点。復活祭の次の週に、ハンナと共に四日間の自転車旅行をします。郊外の田園、ヴィムプフェン、アモルバッハ、ミルテンベルクの宿に泊まりながら、親子を装う蜜月の旅をします。


映画シーンでは、ある教会の木製の椅子に座りながら、ハンナは突然、シクシクと泣き始めます…。何故、ハンナは教会の中で泣いていたのか? 映画を見ながら不思議に思った場面でした。でも小説を読んで初めて分かりました。


本当は、収容所や囚人たちの回想を挿入しないと、ハンナの涙の意味が分からないシーンです。


収容所から唯一生き残った母と娘が書いた手記が出版されていて、戦犯裁判でも女看守たちの罪状を告発する歴史の証人とも証拠ともなっていました。


アウシュヴッツから爆弾作りに工場へ女性が送られ、さらに建設現場へと作業に繰り出されまとた。そして、役に立たなくなった囚人は、現場より再びアウシュヴッツへ六十人が送り返されました。勿論、アウシュヴッツに送り返された女性には、ガス室で殺される命運がまってます。その囚人の選別が、ハンナたち女看守の起訴理由の一つでした。


ある日、空襲で村が焼かれます。収容所の女性たちが閉じ込められていた教会の塔にも爆弾が落ち、屋根が焼け落ち、頑丈な扉を残して建物が丸焼け、彼女たちの大半が焼死しました。何故に、開放して救出しなかったのか…、どうして囚人を見殺しにしたのかが、起訴理由の二つ目でした。


さらにその後、収容所が閉鎖されて、雪が降る真冬に氷のはる道を、防寒着も靴もなく「死の行進」をさせました。真冬に強行して歩かせたために、半分の女性が死にました。これが起訴理由の三つ目です。


自転車ツーリングのときに、教会の椅子で泣いていたハンナは、この過去の記憶に苛まれて泣いていたのです…。 彼女が最後に首吊り自殺したのも、この
「罪の意識」のためです…。


自殺したハンナのことを収容所女所長と会話しているときに、小説でははっきりと、この「罪の意識」があったことを書いています。ミヒャエルは、…収容所や西への行進の際に囚人たちに対して犯した罪は意識していましたよ。…刑務所でも最後の何年かはずっとそのことを考えていたようです…といってます。


小説の原作者ベルンハルト・シュリンクは、人間の善悪の意識に対して、≪性善説≫をとっています。しかし、監督のスティーブン・ダルドリーと、脚本のデビッド・ヘアの視点は、映画を見る限りでは、この点が曖昧にされています。


次に第二点目は。何故、ミヒャエルは法律家でありながら、しかも真相を知りながらハンナに代わって、て刑期の軽減を弁明をしてあげなかったのか? 


ハンナが文盲で…他の被告人たちがでっち上げようているような主犯ではなかった…彼女は有罪かもしれないが、見かけほど重罪ではない…と思いながらも、裁判長のところに説得に行くかどうかを、最後の最後まで迷いながら、判断を保留していました…。彼自身は、法律の専門家でありながら、何故逃げてしまったのか…?


ミヒャエルは、このことを悩み、哲学者で大学教授の父の元に相談に行きます。…人格と自由と尊厳…主体としての人間…他人がよいと思うことを自分自身がよいと思うことより上位におくべき理由はまったく認めないね…と、父は答えます。翻訳が悪いのか、哲学の門外漢であるためなのか、私には父の助言の意味が好く分かりませんでした。


つまり、自分で主体的に判断せよ…!と言うのかもしれません。小説のストーリでは結局、ハンナはそのまま判決を受容して、無期懲役に服し、恩赦で18年後に釈放されます。


第三点目は。ミシャエルが「アウシュヴィッツ」の旅を決意する映画シーンがあります。これは小説にも映画にも描かれていますが、しかし、この戦争犯罪に対するドイツ人の意識、戦争を知らない世代に戦争体験を文化遺産として残そうというドイツ人の≪良心≫が、映画のキーテーマとして描かれていません…。


ともすると、エロチックな青い性の映画、ケイト・ウィンスレットの大胆なヌードばかりに眼を奪われて、映画の刺激的な話題ばかりが目立ちました。


私は、この映画はどちらかというと「シンドラーのリスト」に近い、戦争犯罪をテーマにした重い問いを投げかけるヒューマンな映画ではないかと思います。


「戦争犯罪」や、「戦前から戦後の歴史教育」や、「反戦教育」をうやむやに回避してきた文部省の責任は、消極的な戦争加担と言ってもいいくらいですしょう…、これは日本にもアメリカ人にもなかった「平和」意識ではないでしょうか…?


私自身も、京都奈良の文化遺産は見学に行きましたが、広島の原爆ドームはまだ見たことがありません。6-3-3制の教育課程でも、修学旅行でも、社会見学でも、この戦争遺跡は見ませんでした…!依然日本は、戦争を忘れる世代を育てる教育と、経済復興の延長に、社会体制を作る政治を続けています…!


この映画をきっかけに、私も埃のかぶった本を引っぱってきて改めて読みました。長田弘の「アウシュヴッツへの旅」(中公新書)と、フランクルの「夜と霧」(みすず書房)と

、ジョージ・シュタイナーの評論を数冊…。原爆体験の日本は、せめてこれらを教科書に載せるぐらいの平和意識は持っていい筈です…。


何故、ミシャエルはナチズムの旅をするのか…?監督インタビューで、この映画のテーマをこう答えています。


…「原作のどんなところに興味を持ったのでしょうか?」

「ラブストーリーであると同時に戦後のドイツを描いている点だ。実際に戦争を戦った世代ではなく、戦争が次の世代にどんな影響を与えたかというのがテーマだからね。僕個人としてもとても興味があるテーマだ」…


私からすれば、「監督、それは原作を深く読んでいないよ…、ハンナとミシャエルの戦争に対する意識のズレが問題ではなくて…」と言いたいところです。


ここで、小説にはあるが、映像から省いているヒッチハイクの運転手とのトラブルがありました。私がこだわる小説のワンシーンは、アルザス地方のシュートルートホーフの強制収容所へ行くのに、ベンツに乗せてもらいヒッチハイクします。白い手袋をはめ、こめかみに痣か火傷のある運転手を相手に、強制収容所の職員、死刑執行人についていつしか議論になり、何に憤慨したのか運転手は、マイクを車から降ろして置き去りにします。


彼はマイクにこう激昂して言う。

…職員は自分の仕事をし、邪魔だとか脅かされたとか攻撃されたというような理由で囚人を憎んでいるので処刑するのでもなければ、彼らに復讐するために殺すのでもない。囚人なんて彼らにはどうでもいいのさ…、彼らの表情には、満足げな、それどころか楽しげなところも見て取れるのだ。ともかくにも一日の仕事をなし終え、もうすぐに勤務明けになるからだろうか。彼らはユダヤ人を憎んでじゃいない。…


ここにある、無意識の「悪」の論理は、ハンナが教会の火災のときに囚人を外へ非難させ逃がさなかった弁明しと、全く同じ内容と論理です。


ハンナは、この無意識の「悪」論理」について、裁判で次のように抗弁する。


…私たちはどうやってまた秩序をもたらせばよかったのでしようか?きっと大混乱になって、私たちは収めきれません。…私たちには、囚人をみすみす逃がすことはできませんでした!私たちには責任がありました…


しかし、これが残念ながら戦争中の普通の市民の意識なのです。


最後に第四点は。何故に、ハンナは朗読させるのか…?単に文学に興味があって、文盲を恥じて隠すためだけで、他人に朗読を求めたのだろうか…?


映画でも小説でも、ハンナの過去の生い立ちも、家族の事も家系も明かにされていません。それでも大変好奇心が強く、文化への関心も高く、こんなに知識欲が旺盛で魅力的な女性はめったにいません。むしろ、ハンナは謎に包まれた女性…というべきです。


小説では、彼女はジーベンベルゲンで育ち、十七歳のときベルリンに来て、ジーメンスの労働者になり、二十一歳で軍隊に勤め、どんな両親か、どんな兄弟がいるのか、ベルリンでどんな暮らしをしていたか、軍隊でどんな任務をしていたか…、彼女は教えてくれなかったと書いてあります。


彼女が貧しい田舎娘で、よい生活のために軍務に就き、収容所の看守であることを隠して逃げ回り、自分が生き残るためにユダヤ人を殺し、車掌になって身を隠し…とは、 考えにくい。


翻訳者の松永美穂さんの日本語は大変に美しいです。訳者あとがきで、…ジョージ・シュタイナーは、この本を二度読むことを勧めている…と、書いてます。

一度読んだだけでは、登場人物の細かい感情が分からないということです。


しかし彼こそ、この人間の無意識の「悪」の論理を「悲劇」としてずっと問題にしてきた批評家でした。


衆議院総選挙も近い時期です。確かにもう一度読みながら、ハンナとミヒャエルのこと、戦争のこと、平和教育のこと、愛と平和のこと、平和とエロスのこと…を、もう一度再考したいです。

***************************************************************************************

流石埜魚水の阿呆船、★映画のMIKATA★映画をMITAKA・・・

下記URLで短歌のブログ、≪アーバン短歌≫を掲載しています。映画とはまた異次元の言語空間です。今、梅雨のアジサイをテーマにした短歌を載せてます。宜しかったらお立ち寄りください。


http://sasuganogyosui.at.webry.info/