◆スタッフ
監督:熊井啓/製作: 佐藤正之/製作総指揮: 今井康次、 松永英/プロデューサー: 香西謙二、 北川義浩、 神成文雄/企画: 正岡道一/原作: 遠藤周作/脚色: 熊井啓/撮影:栃沢正夫/音楽:松村禎三/美術:木村威夫/編集:井上治/録音:久保田幸雄/照明:島田忠昭/
◆キャスト
秋吉久美子(美津子) /奥田瑛二(大津) /井川比佐志(磯辺) /沼田曜一(木口) /菅井きん(塚田の妻)/ 杉本哲太(江波) /沖田浩之(三條) /白井真木(三條の妻) /内藤武敏(住職) /香川京子(磯辺の妻)/ 三船敏郎(塚田) /
上映時間: 130分 /公開情報: 劇場公開(東宝)/初公開年月: 1995/06/24
熊井啓監督の「深い河」はまだ DVDがリリースされていませんので、もう一度この作品を見たいとあちこち探して、漸くツタヤの棚でVHSを1本見つけました。偶然にも、同じ棚にやはり探していた井伏鱒二原作、今村昌平監督の「黒い雨」も見つけました。
早速にVHSのデッキからパソコンへ映像を録画・保存しました。ブロクに添付する写真は、一眼レフのデジカメで液晶画面を撮って、トリミングしました。まあまあーの出来映えかな…。
8/15の終戦記念日に、私はテレビで「黒い雨」が放映されるとばかり思っていました。予想に反してクリント・イーストウッド監督のナント何と、「硫黄島からの手紙」が放映されていました。テレビ朝日よーと、がっくりしました。
その時から、新しく封切られる映画を次々に紹介するのではなくて、邦画、特に私にとっての忘れられない邦画を頻繁に紹介しなくてはなー、と痛感しました。
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今、都市に生活する青春の世代にとってインドへの漂白の旅は、未だ神々しい光を放っているのだろうか。
印度は私にとっても、団塊の世代にとってもまだ鈍い光を放っているような気がします。
遠藤周作原作、熊井啓監督の『深い河』という映画があります。映画「おくりびと」の主演俳優の本木も確か、「深い河」や「メメントモリ」から映画の構想のヒントをたくさん得たことを書いていました。
インドツアーガイドの江波は、…印度は一度来ると、徹底的に嫌いになる御客様と何度も来たいとおっしゃるお客様に分れる…と、ツアー一行に印度文化の魅力と幻滅を説明しています。その好き嫌いの分岐点が≪ガンジス湖畔≫の死体焼き場にあるようです。
遥かな記憶をたどると、今の団塊の世代が大学生だった頃、多分60年代だろうかー、学生生活に倦んで休学届けを提出してインドに旅立つ者ー、或いは、受験地獄を勝ち抜いて予備校から一流国立大学に入学したもののー、生きる目的を喪失して退学届けを出して、都会の生活と故郷を捨てて旅立つ者ー、或いは、世間も羨む一流企業に入社したものの、組織のストレスに押しつぶされ、管理社会の無味乾燥なルーチンワークに鬱病に罹り、退職願を出して旅立つ者ー、或いは、夢と希望を抱いたサラリーマン生活に失望して、市民社会の立派な社会人とは別の何か…を希求して旅立つ者ー、家庭と社会からの脱出口をさがしてインドに旅立つ若者たちが、社会現象のように多かった…。
だが、この状況は少しもかわっていない筈なのですが…。
そんな世相を精神分析するさまざまな概念装置も流行りました。ある時期には、彼らは、何とか「ドローム」と呼ばれ、ある時期には、「モラトリアム」何とかと呼ばれ、発達心理学の専門用語で弄くり回されていました。
彼らの間では、ナホトカ経由で大陸横断鉄道に揺られ欧州を放浪する貧乏無銭旅行がファッションでした。ある場合、「旅」そのものが、日常生活の閉塞をトリップする唯一の手段かのように、インドの聖性に向かって続々と旅立つ若者がいました。
小田実のベストセラー『何でも見てやろう』(1972年刊、河出書房新社)は、日本社会の規範から開放されて、自由に外国を旅して視野を広げる若者たちの無銭旅行に大きな影響と勇気を与えjました。
彼に触発されて旅立つ青年が数多くいました。その後に、1947年生まれの沢木耕太郎の処女エッセイ、『深夜特急』(1986年、新潮社)や、1944年生まれの藤原新也の『印度放浪』(1982年、朝日選書,)が続きます。しかし「深夜特急」や「印度放浪」と根っこを同じくする彼ら団塊の世代も、会社を定年退職する世代となり、今は高齢化社会の一員となりました。
一時代が確かに終わろうとしています。改めて、≪時代精神≫を振り返って、若者たちにとっての印度とは、日本人にとっての印度とは、一体全体何なのだろうか…?
或いは、今再び印度への旅に憧憬を感じるとしたならば、新しい都市生活者にとって、印度への旅とは何なのだろうか? と問い直してみたくなりました。ある人にとって、それはスペインであったり、アフリカであったり、ハワイであったり、バリ島であったりするかもしれませんが…。
沢木耕太郎と藤原新也のエッセイのファンは多いです。彼らの「旅」は、肉眼で眼の前の現実を捕らえ、「旅」というリアルな視点の移動が、もう一つの文化の現実に触れ、もう一つの異文化の水と食を味わい、生身の体臭と空と大地と生きとし生けるものを感じ、眼と耳と鼻と皮膚と唇と性器が接したした世界の、もう一つの事象を、人間と世界の新しい出口の発見へ誘っていました。
世界を旅した旅人の眼を通して、エッセイの読者は驚愕の自分発見する糸口を見つけて手に持った錯覚にもつながっていました。私も、旅するリアリストの眼を愛します。
著書の内部と交感するのは難しいですが、せめて活字から精一杯、著者を解読しましょう。沢木耕太郎の『深夜特急』は、…日本を出てから半年になろうとしていた。アパートの部屋を整理して、机の引き出しに転がっている一円硬貨までかき集め、千五百ドルのトラベラーズ・チェックと四百ドルの現金を作ると、私はすべてを放擲して旅に出た。…と書きはじめます。
第一巻では、印度から受けた衝撃を書いています。第7章「神の子らの家」、第8章「雨が私を眠らせる」、第9章「死の匂い」は、確かに冒険好きの若者の書いたインド旅行記であり、印度から初めて受けた文化と生活の違いと雰囲気を大変巧みな文章で伝えています。新しい世代による、旅のルポルタージュ文学の誕生でした。
カルカッタのダムダム空港に降り立ち、オベロイ・グランドホテルへ…。偶然、東北の医大生であるダッカへ向かう若者と同宿して、インド体験が始まります。半月の間に、サダル・ストリート界隈をあちらこちら歩き回り、釈迦が悟りを開いたブッダガヤの日本寺でのんびり居候生活を送り、此経啓助との出会い、アシュラムで共同生活を送り、バスに乗ってまたネパールのカトマンズに入り、郊外の仏教史跡を見て、もう一度インドのベナレスに向かい、ガンジス湖畔を散策しました。
…ある日、いつものようにベナレスの街を歩いていると、くねくね曲がりくねった路地に入り込み、方向の感覚を失ってしまった。道に迷った不安感と、この路地を抜けるとどこかに出るのだろうと淡い期待感をもってさらに歩いていくと、不意に、まったく不意にガンジス河に出た。・・・五、六人の男女が河の水に体を浸している。ところがそこに、風向きがかわったのか、台地の上から不思議な匂いが漂ってきた。もしかしたら、という気がして、私は台地の上がよく見渡せる場所に移ってみた。台地には、黒く漕げた三つの塊と、真新しい布に覆われた塊がひとつあった。・・・まだ燃えはじめたばかりのもうひとつの塊は、黄色い鮮やかな布に覆われてはいるが、それがちょうど人間ほどの大きさのものであることはわかる程度の形が残っていた。青竹を梯子のように組んだものに縛りつけられ、大量の薪の上に乗せられているその塊りには、人間の体特有の凹凸が微妙に浮き出ていた。どうやここは、やはり死体焼き場のようだった。やがて、その死体からも煙が立ち昇り、風に乗って匂いが流れてくる。しかし、それは本で読んだり人から聞いたのとは違い、鼻を衝く異臭というより、むしろ甘さを感じさせる匂いであった。・・・しかし、この死体置き場で、私の眼に異様に映ったのは鳥ではなく、むしろ牛だったて。この沐浴所にも野良牛がうろついており、台地の上から死体を焼く煙が流れてくると、口を開け、眼をさらに細め、首を前に突き出して恍惚とした表情で匂いを嗅ぐのだった。・・・牛がうろつき、鳥が飛びかい、その間にも、焼かれ、流され、一体ずつ死体が処理されていく。無数の死体に取り囲まれているうちに、しだいに私の頭の中は真っ白になり、体の中が空っぽになっていくように感じられてくる…と、書いています。
ガンジスの畔で、死体を焼く異臭を甘い匂いと感じるのは、彼の独得の嗅覚ではないたぜろうか。さらに、牛に恍惚の表情を見るのもまた、彼独得の観察ではないでしょうか…。
この旅行記には、彼だけの眼に映る詩人のよう表現が随所に散りばめられています。ルポルタージュ文学を成立させた沢木耕太郎は、五感で異国の土地を感じるエッセイストです。
もう一人の旅のエッセイスト、藤原新也の魅力もまたリアリストの眼を持ってますが、彼は旅を抽象化する特殊な才能があります。
彼の印度体験は、もっと厳しいです。、彼の処女作『印度放浪』(1982年刊行。朝日新書) は。彼の精神の分銅が大きく揺れ始めた初の旅のエッセイです。彼の最近の力作、『黄泉の犬』(文藝春秋)は過去の自分のインド放浪と、90年代の若者たちのインドとを重ね合わせながら、この本の中では、彼の分銅は再び大きく「印度」へと揺れ戻り、より抽象化を進めています。恐らくこれは、印度放浪の軌跡の到達点とも言えるのではないでしょうか…。
…60年代の日本においてはやくも現実の希薄(あるいはバーチャルリアリティへと向かう時代同行)を感じとった一人の青年がインドに向かったのも、リアリティの回復という、開かれた宗教体験を暗黙のうちに求めていたかのように思える。つまり青年の私は、'正気にもどる'ために彼の地におもむいたのだ。しかしそういったインドにおける青年の旅が、ある時期を境に奇妙に変質をはじめる。そしてその変質の延長線上に90年代における青年の不気味で妄想的なインド観が立ち現れてくることになる。インドという同じ一つの宗教的磁場を起点とした、この60年代の青年と90年代の青年のまったく逆の方向への行動様式の乖離は、宗教と名づけられるものが妄想と覚醒のふたつの様相を呈することを雄編に物語る出来事であったように思える。そしてそのインドを旅する若者の心とその時代の変容は70年代に起こった。…
このエッセイが面白いのは、オーム真理教の、国家転覆の騒乱と、インドへ旅立つ1990年代の若者達の「時代の精神」を同じ水平面で捕らえ直している点です。
富士山の裾野に建築されたオーム真理教の「サティアン」を眺めて、印度へ旅立った若者と、オーム真理教の「宗教」に陥った若者を、戦後50年の高度経済成長を突き進んだ日本の小市民的管理社会の成れの果てである、と言う旅人の厳しい視点があります。
近代史を俯瞰しながら、水俣病と麻原彰晃に新しい発見の虫ピンで刺しながら、同時に 日本も含めた世界の「合理的進歩」史観全体にダウトをかけています。インドのブダガヤの旅で釈迦が悟りをひらいた菩提樹の下で集団瞑想をした教祖麻原彰晃や、同調した若者の一団もまた印度に誇大妄想を抱いた「70年代現象」の一つだと批評しています。
…たとえば路上に人の屍がころがり、乞食たちがむせかえるような臭いを発散させ、死体の屍を食らう野良犬が徘徊し、熱球のような太陽に頭頂を直視され、盗っ人にかっ攫われ、細菌に腸を占拠され、洪水に足をとられ、旱魃に渇き、砂漠のトゲに脛の血をしたたらせる、そんな、あるいはこの世界の中で最もファンタジーから遠い'現実原則'の剥き出しのこの地に、現実回避型の青年たちが大挙して訪れるというこの奇妙な現象。70年を幾年か過ぎたころ、私はそのような不可思議な現象に直面していた。空中浮遊までいかなくとも、西欧からやってきた青年にはもともと多かれ少なかれインドの地に対する神秘志向型が多い。しかし73、4年あたりから大挙して押かけ始めた日本人旅行者にもそのような傾向が顕著に見られはじめた・・・西欧人は植民地の時代以来アジア、アフリカ、南太平洋、南米といった有色人種を支配してきた。しかし近代においてその合理思想に破綻をきたしはじめて以降、有色人種地域に対する無知と蔑視が、逆に思い入れ過剰な期待感へと裏返って、自らの世界に欠落する非合理性や神秘性をそれらの地域に求めるという逆転現象が起こった。つまり自らの行き詰まり状況に対する治癒をそれらの地域に求めはじめたのである。…
たったこれだけの文章で、日本文化にとっての「印度」とは?、同時代の精神にとっての「印度」とは? ーを書きつくせるものではないであろう。もしも印度をあぶりだす精神世界の構造を語りつくそうと思ったならば、孫悟空の登場する「西遊記」まで辿らなくてはならないだろう。
ただ、私にとっては<日本文化にとってのインドの放浪紀>というテーマは、非常に魅力的なのは確かなことです。私は、さらに映画にとっての「インド放浪」を是非ともブロクに載せたいです。乞うご期待…というところです。
下記URLで短歌のブログ、≪アーバン短歌≫を掲載しています。映画とはまた異次元の言語空間です。宜しかったら覗いてみてください。
http://sasuganogyosui.at.webry.info/