ひとつ前のブログに書いたことを有言実行。







アマプラでセカチューを観た。









何となく懐かしく感じる風景。



上映当時も、
私はそれに心を奪われたことを思い出した。



時は1986年。



私は10歳。



律子と同年代。



感覚として、
律子感覚で観ていたんだと思う。



以前も。



懐かしく感じたのは、
私もその時代を生きたことがあるからだ。




昔のようにギャンギャン
泣くなんてことはなかった。



最後、灰を撒くシーンでやっとポロリ。



律子と同年代ということは、
大人になってからの律子とも当然同年代で。



あの頃の私はこんなふうに
純粋に愛したり愛されたり
することもなかったし、
未来が漠然と不安だった。



その不安を思い出して、
見てる最中もザワザワが止まらなくて、
恐い気持ちが襲ってきた。



やっぱり、10代とか20代は、
未来という期間が長過ぎる。



今でこそ、
未来という時間が短くなったから
耐えられるけど、
私には未来を受け入れられるだけの
器がなかったんだ。



一緒に抱えてくれる人でも
いれば違っただろうが、
そんな人もいなかった。



過去、
痛い、辛い選択をするしかなかったのは
仕方がないのかもしれない。



そうやって現実逃避、
麻痺させるしかなかった。



私はそうやってしか生きられなかった。



でもそうやって生きてきたからこそ、
今を生きられているんだと思う。



受け入れられるようになったんだと思う。



原作を読むより、
胸に刺さるものがあった。



残りの人生、
私はどんなふうに生きていくのだろう。



どんなふうに生きていきたいんだろう。



1人で生きていくのか。



誰かと生きていくのか。



久しぶりにざわざわとした、
漠然とした不安に今、襲われている。




 

 

 

PVアクセスランキング にほんブログ村