昨日、映画を見た。




『流浪の月』







簡単にあらすじを話すと、



    

雨の公園でベンチにたたずむ

10歳の少女・更紗。

更紗に傘を差し掛けたのは

男子大学生・文。

文は、

「家に帰りたくない」と言う更紗を

自宅に連れ帰り

2人はしばらく一緒に暮らした。

しかし、

更紗は行方不明届けを出され、

「事件に巻き込まれたのでは?

とニュースになっていた。


事実、事件性はなく、

更紗と文はただ穏やかに

幸せに暮らしていた。

だがそんな生活は長く続かない。


2人は引き離され、

文は幼女誘拐事件の犯人

として捕まってしまった。

それから15年後、

更紗は偶然、

文が経営するカフェに入った。

カフェにしばらく通い続ける更紗。

文が幸せに暮らしていると確認し

ホッとしたのも束の間、

更紗がカフェに通い続ける行動に

不信感を抱いた更紗の婚約者が、

文の存在に気づき、

物語は怒り、悲しみ、切なさの渦に

巻き込まれていく。





あらすじでも書いたとおり、
更紗が文の家で暮らしたことには
何ら事件性はなかった。



だけど世の中は、
男子大学生が10歳の女の子を連れ帰った
ということを異常とみなした。



「話聞けよ!」って思った。



なんで冷静に話を聞かないの?悲しい



話を聞けばわかることなのに…悲しい







劇中にこんな台詞がある。



「人は見たいようにしか見ない」



ああそうかと思った。




それが事実でなくても、

その人が事実だと思ったら

それが事実なんだ。




更紗にとって、

家に帰りたくないというのが事実。




だけど世の中は、

少女が男子大学生に連れ去られた

=イタズラ目的が事実。




事例が事例だけに、

そう思われても仕方ないけど、

事実が事実ではない

ということが

世の中にはたくさんある。




たとえば、

相手にどう思われてるか気になる

という場合。




本当は、

事実は自分だけが知っている。




相手が自分をどう思っているかは

事実ではない。




だけど、

相手がどう思っているかも相手の事実。




その差異で

人間トラブルになることがある。




そうやって考えると、

相手にどう思われてるか気にし過ぎるのは

なんか無駄だなって思った。




別々の人間である以上、

事実は異なるんだから




相手にどう思われるか

気にし過ぎるぐらいなら

自分で事実を語ればいい




そのために私たちは話すことができるし、

書くことができる。




そして、

話された側、読む側は、

冷静に事実を聞いてあげればいいだけ。




そうか、そうか

それがあなたの事実なんだね

と受け止めてあげる。




そんなことを、

今回の『流浪の月』で考えさせられた。





 

 

 

 

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