アマプラにおすすめされて、昨日、

『こちらあみ子』という映画を観た。








おすすめ!
と声を大にして言える映画ではないけれど、
観た後にすごく考えさせられる映画だった。



映画の中では、
「発達障害」という言葉は使われていないけど、
あみ子は発達障害なんだと思う。



あみ子には悪気はない。



だけど、それは次々に人を傷つけ、
最後は自分が大きな傷を負うという結果になった。



あみ子はけして悪くない。



あみ子がそういう人間に生まれてきてしまっただけ。



あみ子に非はない。



仮に自分で選んで生まれてきたとしても、
それでもあみ子のせいではない。



あみ子を通じて何かを学ぶことがあったんだ。



あみ子自身も。



周りの人たちも。



これは私たちもそうだと思う。



私たちがどう生まれてきたか、
何か問題があったとしても、
それは誰のせいでもない。



自分を責める必要もないし、
誰にも責める権利はない。



それと、

実は親が子どもを見放すことなんて、

大ありの有りだと思った。




親と子供の絆は絶対だと、

昔の私は思っていた。




だけど、

親と子供の絆より、

夫婦の絆の方が強い時、

子供は見放される。




私だ。




こっちがノイローゼになるぐらい

毎晩夫婦喧嘩をし、

離婚すると何度大騒ぎしたことだろう。




私は父に着いていくと決めていた。




なのに、私が病気になると、

父は母を選んだ。




私を見放した。




子どものために命を張れる親もいるのに、

そうじゃない親もいる。




あみ子の父も、

あみ子よりも妻を選んだ。




でもあれはあれで

あみ子を守った形だったのだろうか。




一見、田舎に押し付けたようにも思えるが、

あみ子が自由に生きられるようにと、

あみ子を守る形が

離れ離れに生きることだったのかもしれない。




にしても、

あみ子がああなる前に、幼稚園ぐらいの頃に、

何かおかしいと気づかなかったのだろうか。




その責任は少なくとも

父親にはあるんじゃないかと思う。




…といったこういうようなことを、

深く考えさせられる映画だった。




けして心が明るくなる映画ではないけれど、

また見たいと思ってしまうのは、

原作を読みたいと思ってしまうのは

一体何故だろう。





 

 

 

 

 

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