「本心」という本を読んだ。







作者は平野啓一郎さん。



好きな作家さんの1人だ。



2014年頃、
平野啓一郎さんの“分人主義”という
考え方に触れ、共感し、
それから時々作品を読んでいる。



今回は「本心」が映画化されると知り
読むことにした。



自由死、AI、宇宙観、高齢者社会、
格差社会、差別etc. 



平野啓一郎さんの作品はテーマがいつも重い。



巻末に書かれた参考文献がそれを物語っている。



そのぐらい調べ上げられた作品ばかり。



「本心」は2040年代の話。



ざっくりと16年後。



主人公の朔也の母は“自由死”を望んでいた。



でもその矢先、事故で亡くなった。



残された朔也は、
バーチャルで母親を蘇らせ、
母が望んだ“自由死”と向き合う。







自由死。



現在の日本では認められていない。



自死とは違う。



医療を使って安楽死をする方法。



自分で死の時期を選択することができる。



だけど、自死と同じで、
自ら死を選ぶことは許されない
と思う人がいる。



朔也もその1人だった。



母親ならなおさらのこと。



でも母親は「もう十分」と言った。



“何が”もう十分なのか本心はわからない。



「もう十分」には、
人によって色んな思いが込められている。



私も「もう十分」と思っている。



祖父母が3組、病弱、毒親、いじめ、
希死念慮、リストカット、摂食障害、
買い物依存、借金、アルコール依存、
うつ病、精神科入院、ICU入院、
両親から勘当、妊娠、中絶、結婚、泥沼離婚、
早過ぎる父と弟の死。



十分過ぎるほど色んな経験をした。



もうお腹いっぱい。



もう何も起きてくれるなと思う。



もう穏やかに生きさせてくれって思う。



だけど、
生きてるうちはきっとそうもいかないのだろう。



そう思うと、
自由死という形を取りたくなる気持ちも
わからないわけでもない。



自死とは違い安らかに逝ける。



死ぬのはみんな恐い。



何度も死のうとした私でさえ、ICUに入院した時、
「明日かも…」と言われた時は恐かった。



でも、自分でその時を選べれば覚悟もつきそうだ。







死はタブー視されがちだ。



でも生きてるからこそ
死についてもっと話し合うことが
必要なんだって思った。



私たちは夢は語り合う。



どれだけ幸せに生きるかについては話し合うのに、
どうやって幸せに死ぬかは語り合わない。



それは具体的な方法ではなく、
死の一瞬、どう在りたいかという話し合い。



例えば、
死の一瞬ではないけれど、
最近までやっていた
「春になったら」というドラマで、
お父さんが最後に会いたい人に囲まれる場を持つ
というのは理想的だと思う。



あれは余命宣告されていたからかもしれないけど、
本当は余命なんて誰にもわからない。



どんなに健康な人だって、
一歩外に出れば危険と隣り合わせ。



死んでしまったら後悔なんてわからないけど、
突然死んだら心残りだろうと思う。



だから、
生きてる今だからこそ、
生死についてしっかり考え、
人とそれについて言葉を交わし合い、
死とは恐いものではない
という心構えをしておくことが
大事なんじゃないかと思った。






私は数年前から、自然と、
最期のその時のイメージが頭にあって、
今、私には家族がいないけれど、
家族に見守られて
「なんだかんだ色々あったけど幸せだったな」
と笑顔で息を引き取りたいと思っている。



だから今、一生懸命、
その幸せ作りをしているような気がする。



でもきっと、
イメージしたとおりにはならないだろう。



だから、
「なんだかんだ色々あったけど幸せだったな」
って“いつでも”思えるようでありたい。



そのためには毎日後悔なく生きたいと思う。


 

 

 

 

 

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