皆さんの中には眼鏡をかけた人が好みだという方もおられるでしょう。
かくいう私もそうです。

その私が眼鏡の道に転んで20年位経つのですが、ある疑問にぶつかりました。

「眼鏡をはずす変身って『悪』なのか?」

無論、「眼鏡を外したら美少女に!」という展開は玉祖命と遮光器土偶に誓ってアレします。

今回焦点としているのは例えば「ここ一番の状態でメガネを外す」という行為についてです。例えば「ライブ」や「戦闘」のようなアクティブな状態が一般的でしょうか、勿論この状態は運動を伴いますのでつるで嫋やかに固定されている眼鏡がディスアドバンテージとなるし、眼鏡の破損に依る危険性もついて回ってきます。眼鏡を外すという選択は実に合理的である。

そう思ってはいないでしょうか?

しかし真実は違います、ここには眼鏡とそのキャラクターの人生をつなぐ大事な要素が隠れているのです。そしてその答えはスーパーマン初登場である「Action Comics #1(1939年)」にてすでに明らかにされていたのです。ここには超人の正体はメガネを掛けた真面目な男というストーリーが有ります。

スーパーマンについて知識の差はあれど、存在そのものについては皆さんご存知かと思います。彼のキャラクターとしての設定は時代々々においていくらかの差異がありますが、おおよそ一貫した設定もあります。個々では一般的な設定を説明させていただきます。
スーパーマンは惑星クリプトンで生を受けました。しかし彼が生まれてまもなく、クリプトンは崩壊してしまいます。惑星の崩壊を予見していたスーパーマンの両親は赤ん坊が乗るのが精一杯の宇宙ロケットにスーパーマンを載せ、脱出させました。そしてロケットはアメリカの田舎道に着陸、善良なケント夫妻に拾われたクリプトニアンの生き残りは「クラーク・ケント」という名を授かり善良なアメリカ人として成長。自分が他者と比べてあまりに強力な肉体を持つことに気が付き始めた頃、ケント夫妻からこの事実を告げられた。
心身ともに健やかに育った彼は眼鏡を掛けた新聞記者「クラーク・ケント」として生活しつつ、人智を超えた事件に対して「スーパーマン」としてタチムカウのだ。

長々とした説明でしたが、一つの事実にお気づきでしょうか。
クラークの正体がスーパーマンなのではなく、スーパーマンの正体こそがクラークなのです。メガネを掛けた新聞記者。これこそが彼自身の築き上げたアイデンティティなのですね。
無論スーパーマンとしての活動の中でスーパーマンとしてのアイデンティティも存在しえます。両方がない混ぜになったものもあるでしょう。しかし彼の変身は「スーツを着用」や「神仏の力を憑依させて」ではなく「普通に着替える」という行為の先にあるものです。この2つは地続きでありながら、彼の精神性は、そして肉体の性能はクラーク時代に構成されているのです。彼のクリプトニアンとしての名前「カル・エル」を知ることになったのは成熟してからです。

いやしかし、スーパーな視力を持つ彼は必要もないのに眼鏡をかけているじゃないか。偽メガネなのではないか。眼鏡を外した彼こそが真実の彼なのでは?そのような疑問が当然浮かぶでしょう。確かに彼の眼鏡は変装のためにあります(時代によっては催眠波を出すことによって疑問を持たせないという機能までありました)。この疑問に対する答えがマーク・ウェイドによって紡がれたKingdom Comeとその外伝とも言えるThy Kingdom Comeにあります。

Kingdom Comeについてざっくりと説明させていただくと、今より未来にある事件をきっかけにスーパーマンは引退します。社会とのつながりを絶ち、名を捨て、北極圏にある隠れ家でダレのためでもなくただ自分の心を癒やすセラピーのように農業に励んでいます。そこに昔の仲間が現れ若い世代のヒーローが暴走しているのでスーパーマンとして復活してほしいという要請があるのです。なんだかんだでいろんな問題を解決した彼は再び社会との交流を復活させるべきだという結論に達します。その時に彼に旧友にして恋人から送られたもの。ソレが眼鏡だったのです。

おわかりでしょうか、ここにおいてスーパーマンの持つ伝統的なアイテムと考えられていたものが50年以上の時を超えて「クラーク・ケントが人とつながりを持つためのアイテム」としての本来の役目を明らかにされたのです。
つまりクラーク・ケントにとって眼鏡とは社会性であり、人の心と向かい合うためのものであり、人類愛。つまり日常そのものの象徴として存在するということなのです。
Thy Kingdom Comeに於いてKingdom Comeのその後が描かれています、30世紀の未来で若い世代のヒーローたちが空をとぶさまを群集に混じってメガネを掛けた老人が眺めています。ソレまれのストーリーを見れば彼こそがスーパーマンの正体である事がわかります。
人は人の間で生きてこそ人間であるとはよく言われることです。つまり眼鏡キャラにとってメガネを外すことはある種のトランス状態であり、悪く言えば拒絶とも言えます。
しかし「ここ一番でメガネを外す」ということは「皆のところに帰るためにメガネをかける」ということ。つまり愛の側面を強調する行為なのではないでしょうか。メガネを外して羽ばたく「彼・彼女」しかし鳥はいつか羽を休めるもの。
眼鏡を外したことを嘆くより、眼鏡を掛けたキャラクターの笑顔を迎える準備をしようじゃありませんか。