391「塀の中のジュリアス・シーザー」リアルな血の世界の男たちが、シーザーの血で手を真紅に染める | ササポンのブログ

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人間の精神には、血は流れていない出来ることなら

シーザーの精神のみをとらえて
肉体を傷つけたくはない
だが実際はシーザーの血を流さねばならない

だから
諸君、勇気を持って殺そう、憎悪を持ってではなく。

シェイクスピア「ジュリアスシーザー」より

この映画の構造は
きわめてシンプル。

実際の犯罪者が、
刑務所の中で、
シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」を
演じる。
その稽古の様子が映される。
厳密にいえば、
ドキュメントではない。

上映時間も1時間16分

だから、
彼らの犯罪歴を詳しくは説明しない

ただ
字幕で「殺人・刑期25年」とか
出るだけだ。

しかし
それだけで十分だ。

「ブルータス、俺たちがひとの風下に立つのは
運勢の星が悪いのではない
罪は俺たち自身にある」

このセリフは、キャシアスのもの
そのキャシアスを演じるコジモ・レーガという男の罪は
殺人。
終身刑だ。

よく
役者というのはその生き様が演技に現れるという

つかこうへいが言った。
「観客が観たいのは
舞台で役者が、本当に死ぬところだ」

生と死、
ひとがひとを殺すことの意味と無意味を
何度も問いかけてきた
シェイクスピア。

それを
殺した男が
死にゆく男たちが演じる

こんな素敵な見世物があるか?
諸君!!



こんなことをいうと
反感を持つひとがいると思うが、
この映画は、
そのひとの素養によって見方が違う。
正直言って、
ジュリアス・シーザーを見たことも
読んだこともないひとが
この映画に関してどうこう言ってはいけない

観てつまらないとか
思ってたより、
あっさりしているとか
思うのは勝手だが、
ブログに書いたり、
ツィートするのはやめたほうがいい。

ついでにいってしまうが
この映画の検索したときに
上位に来る人気映画ブロガーのくせに
この映画の評で、
ジュリアス・シーザーという話は
よくしらないが・・と
恥ずかしげもなく
書いている

それを読んで勘違いしないほうがいい

シェイクスピアは
基本教養です

それを全然、知らない
読んだことがないというのは
恥ずかしいことなんです



以前に僕が書いた
ピーター・ブルックの舞台「ハムレットの悲劇」評で
示されたテーマ

心を汚さずに人を殺せるか?

シェイクスピアの悲劇、史劇は、
常に
策謀が横行して
血にまみれる
そして
おびただしい死があふれる

この映画の中で
それを演じる役者たちの世界にも
血と死があふれていた

リアルな血の世界によって
収監された男たちが、
策謀と血と死を演じる。

そこに
独特な迫力が生まれないわけがない

さらに
彼らが、
演じているのが、
罪と罰が充満する刑務所だ




さあ諸君、ローマ人たち、身をかがめ、シーザーの血に
両手を、腕までひたし、剣を真紅に染めよう
(中略)血塗られた剣を頭上に振りかざし、
声をそろえて、叫ぼうではないか
「平和だ、開放だ、自由だ」と

殺しや策謀の末に、
閉じ込められた彼らが、
殺し、開放され、殺される役を演じる

どんな気持ちで演じたのか?

この映画では
それを問うことはしない

ただ
悩みながら演じる姿のみを
映す。

そこには
シェイクスピアの世界観の視覚化があり
同時に
演技論にもなっている

つまり
役者がまったく他人になりきるとはどういうことだ・・という
演技の根本。

もちろん
80歳になるタヴィアーニ兄弟監督は
結論などださない

犯罪者が刑務所なかで
シェイクスピアのジュリアス・シーザーを
演じるために
稽古をする姿を撮っているだけだ

それを観て
僕たちは、
その素養、教養によって
無限のテーマを引き出すか。
それとも
ただ退屈だと思うか?