
ハリウッドに招かれて、「ロボコップ」のリメイクを撮った
ジョゼ・パヂーリャ監督
以前に、彼の出世作、「エリートスクワッド」の評の時にも
書いたけど、
この監督、本当に冷静だ。
感情が激して撮るということがない。
この映画はドキュメントだ。
「バス174」は、
サンドロ・ロサ・ド・ナシメントという青年が起こした
バスジャック事件は、
描いているが、その視点は
あくまでも冷静だ。
世間では
ドキュメントというのは
常に冷静な視線で真実を描き出そうとしていると
思われているふしがある。
でも実際は違う。
作り手が、内の持つ熱い思いを描くために
かなり
強引な構成をほどこすことが多い。
当たり前なことだが、
ドキュメントも編集をしているのだ。
撮った画像をダラダラ流してるわけではない
そこに作り手の意図が介在するのは、必然だ。
明らかに一方的な視点から描いたり
否定する側の、
いやな側面を描いたり。
しかし、
この映画の監督、ジュゼさんは、
冷静だ。
あまりにもセンセーショナルで
その中継をブラジルの4人に一人は見たという
この事件。
事件後、
たくさんの報道があったが
肝心の犯人、サンドロ・ロサ・ド・ナシメントのことがなにも報道されない・・と。
報道しようにも、
情報がない。
なぜなら
彼らは、見えない存在。
ストリートチャイルド
ブラジル社会では、
居ないことにされている人間だから。
監督は、
彼のことを調べることから
始めた。
目の前で、
母親を刺殺されたナシメントは
引き取られた叔母の家を出て、
ストリートチルドレンとなる。
お決りの路上生活者となった
ナシメントが
お決りの犯罪者となり
刑務所にぶち込まれる。
日の差し込まない監獄
5人入れば一杯の部屋に
20人詰め込まれる
交代で立ったり
座ったり
ハンモックに寝たりする。
そこにぶち込まれてる人間が叫ぶ。
「これがブラジルだよ!」
「カメラが帰ったら、また俺たちは殴る蹴るされるんだよ」
そんなメシメントが
バスの中から叫ぶ。
「おれは、カンデラリアにいたんだ!!」
カンデラリア教会虐殺事件は、
1993年7月23日、リオデジャネイロのカンデラリア教会で、
8人のモレーキ・ジ・フア(ストリートチルドレン)が警官を含むグループに射殺された事件。
刑事司法判決は2人のみ有罪。
ウィキさんより
家のない子どもたちの簡易宿泊所の機能を持っていて、
食料、シェルター、教育、宗教指導などの援助を行っていた教会に、
車で乗り付け、
拳銃を乱射。
目の前で、友達が殺されていく。
その事件を
世間の大多数は、当然の行為と言った。
あんなやつら、殺されて当然と。
殺されて当然と思われている人間が、
強盗の末に、
バスジャックをした。
これも必然だ。
人質になったこの女の子が、最初に、
メシメントが、
銃を持ってバスに乗り、
強盗を働いていたとき
床に伏せて、
携帯で、電話した。
家と、友達と
そして
なんとバイト先に。
ボスに遅れるから・・と。
最初は
普通の強盗だと思っていたから。
銃を持った強盗に出会った、
大学生の女の子が、
バイトに電話して、
遅れるから・・と伝える・・。
そんな国なのだ。
ブラジルは・・。
この女の子は、ジャーナリスト志願なので、
その日の状況を、
詳しく話してくれた・・と
本当に冷静に話していた。
犯人がなにを言ったか。
どんな様子だったか?
恐らく、
メシメントは、
バスの外に出れば、
彼女のような大学生と
話はできないだろう。
口をきいてもらえないだろう。
でも
このバスのなかで銃を持っていれば
話ができる。
話を聞いてくれる。
そこには
確実に自分が存在していた。
彼女はいう。
「彼は、バスの外に出たくないようだった」
人質を取って、
立て籠もらなくては、
存在を認めてもらえない彼ら。
彼は、
大学生の男の子にいう。
「お前、学生か?」
「そうだ」
「じゃ、出ろ。遅刻するぞ」
彼は、
人質の女性からマリア様のネックレスをかけられて
「神を信じる?」と聞かれ
「俺は、神しか信じない」といった。
彼女は思った。
「この人は、人を殺せない」
彼女は、
正しかった。
でも
世間はそれを許さなかった。
彼は、
極悪でなくてはならないのだ。
人でなしの冷血漢でなくてはならないのだ。
見えない存在の彼らの末路は
死でなくてはならないのだ。
徹頭徹尾、冷静にこの事件を描き切った、
ジョゼ監督は、
そこでの思いや問題点を、
次の初めての劇映画「エリートスクワッド」で見事に娯楽として昇華させ、大成功した。
この劇映画の主人公の名前は、メシメント。
彼の思いは、
この名前に込められていると思う。
見えない存在の彼らの末路は
死でなくてはならない。
なら、
なぜ彼らは生まれ出されたんだ?