
アメリカのドラマは
ヒットすれば当然、
まあまあの視聴率でも
かなりの確立で
シリーズが続き
それこそ
メガヒットなら
100話以上作られる。
最後のシリーズでは
主要キャストが
一話出演につき1億円のギャラを貰った
「フレンズ」ですら
最後のほうの物語は
パワーダウンしていた。
そりゃ、もう仕方がない。
だって
同じキャラで
場所も限定されているわけだから
ワンパターンでネタ切れするのは
必然。
GLEE最高、最高と
言い続け
ここまで評を書いている僕ですら
すでに日本での放映がはじまっている
シーズン2には
あまり期待していない。
結局、
物語が続けば必然として出てくる矛盾が
この物語にはある。
この物語の登場人物は
あくまでも
負け犬で排除され
引け目を感じている人たちだ
けして
メジャーにも強者にもなれない。
しかし
物語が続けば
歌もうまくなるし
GLEEとして勝ち続ければ
負け犬でいることも
不自然となる。
それを阻止するために
作られた負け犬のエピソードは
不自然となり
物語のパワーは落ちる。
かと言って
ジャンプの格闘漫画のように
相手をどんどん強くする・・というのも
あまりにも安直だし
つまらない。
正直、
見ていないのに言うのもなんだが
シリーズ2の最初で大物ゲストが出るってだけで
もう不安である。
てなことを
言いながら、
その常識を打ち破るシリーズ2を期待してもいる。
なぜなら
ここまで見事で腕のある製作、シナリオライター陣は
稀だから。
でもね、
シーズン3は絶対にパワーダウンする。
これは
断言。なぜならキャストのギャラがものすごい額になって
みんなスターになるから。
さて、ネガティブトークはこれぐらいにして
すばらしいシーズン1だ。
15、16話は
おそらく
シーズン1のエピソードの中でも
屈指の出来だろう。
まず
15話は
マドンナ、マドンナ・・ただひたすらに
マドンナである。
彼女の曲を生かすために
作られた話。
だから
シリーズとしての繋がりには
無理がある。
まず
スー先生がマドンナを絶対神・・としている。
これは
いきなりである。
シリーズとしては
あきらかに不自然だ。
それなら
その前のエピソードで
チア部の楽曲に一回ぐらいは
マドンナの曲があるべきだし
それでなくても
「マドンナの曲は
最高の部員が揃わない限りつかわない」的な
セリフがあるべきだが
そういう伏線は一切なし。
スー先生のキャラなら
マドンナ好きでもいいだろう・・で
設定してしまった。
つまり
このことでもわかるように
このドラマの物語の中心が
ここにきて
ウィル先生だけじゃなく
スー先生にも割り当てられてきた。
原因は
簡単。
シリーズが長期化しそうだから。
それを証拠に
この15、16話でのウィル先生とレイチェル
特に
主役であるはずのレイチェルの存在感は
まったくない。
元々
厳密な主役を置かない
群像劇の要素はあったが
ここにきて
その傾向があきらかになった。
代わりに
エピソードのメインは
ゲイのカートと
黒人メルセデスだ。
いままで
痛快なだけだった
ウィル先生へのスー先生のディス(批難)が、
ここでは
スー先生に対する
同情に転化されています。
それによって
カートとメルセデスが
スー先生に対して近親感を感じてしまい
チア部に迎えられてしまう。
ここから
続くエピソードと
マドンナの曲の絡めかたは
見事で
「ライクアバージン」のモロやん!!のシーンを含めて
彼女の曲の多彩さが本当によくわかり、
ラストの「ライクアプレイヤー」まで
隙のない構成だ。
そして
16話はもうカートの独壇場だ。
彼の心に秘めるゲイとしての苦悩、コンプレックス。
理解しようとする父親の中にある
普通の父親が感じるはずだった
男としての息子とのふれあい。
ソファに座って好きなスポーツを
愚痴りながら見る。
大好きなフィンと父親が
作り出すその光景を見る
カートの姿は
マイノリティが持つ
普通世界とのどうしようもない
感情の隔絶を
表現している。
とにかく
カートを演じるクリス・ コルファーが
どんどんよくなってきて
このシリーズで確実にスターになると思う。
やっぱり
アメリカでは
ゲイ役を演じるのが
名優への近道のようだ。