
もはや
名作であれば
隠れることができない。
だれかに
発見されてしまう。この傑作戦争・・いや
戦車映画も
好きなひとはとても多い
特に
アニメ関係者のなかに
この映画の信望者が多く
アニメーターが
戦車を描くときに
この映画のアングルやカッティングを
かなり
参考にしているらしい。
確かに
この映画における
戦車疾走のの描写は
完璧だと思う。
寄りと引きの構図
そして
タイミングがとてもいい。
ただ
僕は
この映画の原作が
戯曲だった・・という事実に着目したい。
戯曲というのは
当たり前だが
舞台で演じられることを前提とした台本です。
恐らく
この映画を観た人は
この映画をどうやって舞台でやるんだ・・と
思うかもしれない。
もちろん
舞台で
戦車をガアガア走らせるわけにはいかない。
ただ
この物語での戦車は完全不可欠だ。
さらに言えば
広大な砂漠も
さらに
ヘリコプターも。
行き止まりの谷も
不可欠だろう・・が
それらは
舞台に再現するのは
不可能だ。
ここで
僕は
いささか
実験的であるが
この映画を
もし戯曲にしたら・・という
逆の視線から分析してみたいと思う。
(今日の文章はいささか
硬い。なぜかと言えば
今年に入ってからの
僕のプログが
どうも知性にかけているばかりではなく
変態方向に進みつつあるので
ここらで
僕は頭がいいんだぞ・・ということを
分からせてやろ・・・と
いうのは嘘で
本当は
いま横のテレビでサンデル教授がしゃべっているから
影響されているだけです)
まず
この映画で最も舞台向きの場所がある。
戦車の中だ。
つまり
「レバノン」のように
すべてを戦車の中での会話だけで
物語を成り立たせる・・という。
これなら
可能だが、
ただ
問題はアフガン側の視点がなくなり
ただ、もう
彼らは怒りに駆られて襲ってくる
恐怖の存在・・となる。
スリラーやホラーとしては
おもしろいが
外の世界、つまりアフガン側の視点が無くなってしまう。
それなら
映画のように
戦車の中のロシア側と
アフガン側と
交互に描けばいいのか?
こうすれば
視点は広がるが
散漫になる。
少しこの映画とは離れたことになるが
舞台というのは
極端に情報量の少ない表現です。
役者の表情と言ってもアップには出来ないし
スピード感もだせないし
風景も見せられない。
説明は
すべてセリフ。
あとは観客のイマジネーションにゆだねられる。
「ここは宇宙!!」といえば
そこはすぐに宇宙となるが
具体的に画面を見せるわけではないので
観客、ひとりひとりの宇宙が思い浮かぶ。
そのセリフだって
「宇宙」という言葉がわからない観客には伝わらない。
つまりは
言葉の壁もある・・という極めて窮屈で偏屈な表現だ。
ただ
それがゆえに
観客に想像力があれば
無限の情報が目の前に広がる。
この映画が
映画ゆえの
有効性を最大限に生かし
双方の人種の理解と断絶
そして
人と人の信頼と対立を
描いている。
物語は
けして
先が読めず、
そして
けして
感情に対して容赦ない。
ラストをどのように解釈するかは
人それぞれだが
やっぱ
どの国でも・・・女は怖い・・と
いうことですか・・ね・・。